後腐れのない大人の関係/ではない子供の関係|+働かないふたり

漫画
この記事は約16分で読めます。
Pocket

おこんにちは。ザムザ(@dragmagic123 )は、おおむね大人たちが営んでいる社会というものが、小学校の教室の風景の延長にあるように見える……そんな目を持っています。で、そんな目に「大人の関係」という文言も映ることがチラホラ。どうやらいやらしい言葉なようだ……で、興味を持ったのは大人の関係があるなら「子供の関係」ってなんだろう? そう思ってしまったのです。この記事では吉田覚の『働かないふたり』を手掛かりにし、子供の関係について検討します。
この記事で取りあげている本
 

後腐れのない大人の関係/ではない子供の関係|+働かないふたり

子供がそのまま大人になっている人間観

ここでは、社会を「小学校の教室」としてイメージし、大人として生きる人々の小学生っぽさを踏まえて、「子供がそのまま大人になった」ような大人たちの姿を押さえます。

大人社会は小学校の教室の延長にある

突然ですが、吾人は社会に対してこんなイメージを持っています。大人たちが政治や経済や娯楽やらをやりくりしている社会というのは、小学校の教室の風景の延長にあるのではないか、と。せいぜい、あの児童たちの世界に「女とカネ」(※)の項目が付け加わったくらいなのではないか,
と……
小学生が作り上げる教室然とした社会とはいえ、女とカネの要素が入ってくると随分いやらしいものに様変わりします。多少なりとも社会に出て右往左往させられる人間関係の多くに女とカネが関わってくるのだ……と、そう解説してしまっても良さそうな気配は決してゼロではないのです。
「役に立て・金を稼げ・夢を持て」などの文言でプレッシャーを受けるからこそ、〈学校=社会〉そのものに嫌気がさし、ひきこもりや非行に向かったりもする。ハラスメントやマウンティング、挙句にバイオレンスにまで発展しかねない「女とカネ」というのは、要するに「権力指向」のことです。
※女とカネ:カネと並べて、「異性」ではなく「女」と表記したのは、男性であれば女を求め、女性であれば男性に気に入ってもらえる女であろうとする、といったニュアンス以上に、女性が花に喩えられもするその美的なあり方に焦点を置いているため。また、これは街やネット上で「見込み客を釣ろうとする」広告全般に「女性的な印象」を持つ筆者の感受性にも由来する。
 

小学校の教室然とした社会の人間観

小学校の教室が社会のベースになっているとすると、二つの軸があることに気づけます。ひとつは「いつまでも子供のまま」という横軸としての「子供の軸」、もうひとつは「とは言っても歳はとっている」という縦軸としての「大人の軸」。当記事ではこの両軸を人間関係のベースに仮設してみることにします。

上の図では「子供の軸/大人の軸」をそれぞれ「生活/人生」と割り振っています。解説すると、人間は時の流れに沿うかたちで、短期的に見れば生活実感に執着する子供であり、長いスパンで見れば人生経験を宝蔵する大人である、そういうふうに描くことができるわけです。
また、人が時として「生きる意味=自分の価値」に思い悩む場合でも、この縦軸と横軸は参照されます。ミクロには生活の現場があり、マクロには人生の来し方・行く末がある。生活が立ち行かなくなり、余裕が失われるに連れ、人生全体が暗いものに感じられる。もしくは良いことづくしで運勢が向いてきたと感じられれば、人生全体にも肯定的な評価を与えられる基本的にはこうした「ミクロ→マクロ」のまなざしがベースになっている。逆に「マクロ→ミクロ」へのまなざしも夢や目標などといった「馬の鼻先に人参をぶら下げる」式の評価軸もあるでしょうが、これも生活の現場に依存した気分(気運)によって左右されると見ることができます。
小学生の頃、近視的には好きな教科や嫌いな先生、テストの点数や夕方5時からのアニメに追われていたものです。しかし遠視的には年々大きくなる体、短距離走のタイムの上昇、大人たちから訊ねられる将来の夢など、大人に向かって成長していく自分にも気づいていました。──結局のところ、この構図が〈社会〉なのだ。わたしたちが直面しているのは、図でいうところの「今現在」であり、そこは子供の領分、小学校の教室に通じているのである。
以上のように説いてみた「小学校の教室然とした社会の人生観」ですが、図で示したイメージは必ずしも「小学校の教室」には限定されないことがわかるでしょう。吾人がたまたま「小学校の教室」だとイメージしているに過ぎないというのもありますが、そうは言ったものの押さえておきたいのは次のことです。それは、誰が言ったのでもなく巷間に流布している「子供がそのまま大人になっている」といった人間観です。この人間観に対して、ここでは多少なりとも信憑性を感じてもらえればと思います。
 

女とカネにちなんだ大人の関係……ではないもの

「小学校の教室然とした社会のイメージ」並びに「子供がそのまま大人になった」という人間観を押さえた後に目を向けてみたいことがあります。それというのは、昨今一部の界隈で目にする「大人の関係」という文言です。
大人の関係と聞いて皆さんはどんなイメージが浮かぶでしょうか? いろいろな解釈があるとは思いますが、ここでは特にその言葉が持つ「いやらしいニュアンス」に注意してみます。
いやらしい意味を持った「大人の関係」。それが具体的にどのような関係かは詮索しませんが、ここに「女とカネ」の気配が付きまとっていることは感じてもらいたい。さらに、「金銭によって割り切った性的な関係である」こともまた、感じてもらいたい。──こうした関係からは、子供のいない人にとっても “子供の教育上よろしくない” と判断できるだけのいやらしさを感じるのではないでしょうか?
女とカネの “女” の要素を抜いてみるとしても、「大人の人間関係とは、金銭が間に入ってくる後腐れのない関係である」という含みを読み取れます。
金銭が間に入った後腐れのない人間関係は、実社会で言うところの客と店員の関係であり、従業員と雇用者、労働者と資本家の関係へと敷衍できます。しかし、その人間関係が “金銭が間に入った後腐れのない人間関係” であるということに対して、ある種のいやらしさを感じとる感受性もあります。
問題が女だけであれば、もしかしたらまだそこまでいやらしくはならないかもしれません。恋愛・性愛・親愛などの感情は人が生きる上で大切になってくる感情ですから。ところが、そこにカネの問題、つまりは権力への執着が絡んでくると、途端にいやらしさが出てくる。恋愛ならよくても三高(身長・学歴・収入)目当てだといやらしくなり、結婚ならよくても家柄目当てだといやらしくなるように
以上の人間関係指向が子供にもないとは言い切れませんが、子供の視点からすると「汚い大人」として映るものであることは確かでしょう。それと共に浮かんでくるのは次の疑問です。──では、いやらしい大人の関係に対して、そうではない「子供の関係」はどのようなものなのだろうか?
 

『働かないふたり』をヒントに「大人」と「子供」の違いを見る

ここでは『働かないふたり』という漫画作品を例にし、「大人の関係」ではない人間関係──「子供の関係」を探ります。

大人の関係だと不健康で、子供の関係こそが健康的だ

大人の関係ではない「子供の関係」ってなんだろうか? ──そう考えたときに取りあげてみたいのは吉田覚による漫画作品『働かないふたり』です。
『働かないふたり』はタイトルの通り働いていない二人組、兄妹なんですが、その兄妹の日常を描いた作品です。内気な妹に対してコミュニケーション能力が高く、一人で海外旅行にも行ったりもする兄が(ひきこもりの妹を思いやるような形で)同じようにひきこもっている。どちらも無職で親のスネをかじっていて、昨今の自助や自己責任などを口にするネオリベ主義者からすると目から血が出るような暮らしを送っている。
興味深いのは、『働かないふたり』から読み取れるメッセージが「大人の関係だと不健康で、子供の関係こそが健康的だ」といったものだということです。QOL(quality of life 、人生の質)の視点から、無職者の生き方が働いている人々にとって救いになる、と言ってもいいでしょう。詳しくは実際に漫画を読んでもらうとわかると思いますが、作中では「働いていないふたり」と知り合って、「働いているひと」や「働いてきたひと」が “いつの間にか自分が見失っていたものに気づく” パターンが繰り返し登場します。
働くというのは大人がする社会的な営みです。対して、大人であるにもかかわらず “働いていない” 、それどころか「遊んでいる」ようにしか見えない兄妹の姿は、「大人の関係」を脱臼させるような、「子供の関係」を垣間見せてくれます。
正確な年齢はわかりませんが、『働かないふたり』の兄妹は成人しています。つまり大人であり、社会人として働いていてもおかしくない年齢です。世間的には「働いていて然るべき年代だ」と思われて然るべき世代なんですね。しかし、働いていない。──とは言ったものの、このギャップはむしろ大切です。
子供が子供らしいことをしていても子供だから「当然だ」と思って気にも留めません。ところが、いい大人が子供のように振る舞っているとすれば違和感があります。大人の関係を営めて然るべき年齢なのに、子供のようなことに夢中になる。……そう、子供のような、関係に。
 

役に立つとかどうかを超えて人と関わる後腐れのある関係

吾人がこの記事を書くことを着想した『働かないふたり』のエピソードに次の話があります。それは、第21巻に収録されている #1370「セロトニン」という回。

©︎吉田覚

奇しくも「女とカネ」という価値意識を否定している場面。老女と話している、メインで発言している青年が働かない兄妹の兄です。
カネよりも女よりもセロトニンが大事だ!」と熱く語っていて、それも10月の秋空の下で日光浴をしているとなると、なかなかに風狂ですよね。その風狂も大抵の大人たちが求めがちな「女とカネ」を引き合いにしたうえでの「セロトニン分泌のための日光浴」ですから、大人的なものから距離を取る子供的な素行と読めます。
ちなみに小さいコマで「うんこ」と言っているのが妹です。うんこが好きなんですね(この点も「子供っぽさ」や「小学生らしさ」が窺えます。)。さらにさらに兄のほうは「ちんこ」が好きです。好きと言っても “性的” にというのではなく、“小学生男子” 的な意味の好きだったりしますのよ。勘違いしないでね?
最後のコマで「あー 金ほしいなー」と言ってるのは「オチをつける」効果だとして(むしろカネへの欲望をネタにしてのギャグ化?)、注意したいのは掲載した1ページの中のどこにも「金銭が間に入った後腐れのない人間関係=大人の関係がない」ことです。
これは『働かないふたり』の作品全体に言えることですが、誰も彼も互いにとって “後腐れのある” 人間関係になっていることが挙げられます。それも単にキャラ立ちの都合という面からそう言いたいのではなく、役に立つとかどうかを超えて人と関わる姿がそこにはある。──ここに注目したいのです。
主人公の兄妹は無職で親の稼ぎを頼るニートであり、社会的には役に立たないと見做されがちな存在です。しかしむしろ、社会的な価値観から離れているからこそに、兄妹に親身になって関わる人との絆は「大人の関係」とは違った関係性であることが強調されたりもして。そこには、金銭が間に入っていない「後腐れのある人間関係」を考えるヒントがありそうなのです。
 

いやらしい大人の関係ではない「子供の関係」を考える

「大人の関係」は “金銭が間に入る後腐れのない関係” である。これはいいでしょう。そしてそれは子供からすると “いやらしいもの” でもあります。ここで気がかりになるのは次のことです。①大人の関係のいやらしさとは何か? ②大人の関係ではない「子供の関係」とは何か?

①大人の関係のいやらしさとは何か?

まず①大人の関係のいやらしさとは何か? ……大人の関係のいやらしさは、身体と記憶を意味の供給源とする人間関係を金銭関係によって代替してしまうところにありますなんの縁もなしにカネを介して一定のサービスを受けて、後はそれっきり。「役に立つ」とか「有用な人材」といった意味がなければ、その相手と繋がる理由がない。個人同士が繋がりあうのに、合目的な理由の設定が前提にされるわけですね。
少し話が脇道に逸れますが、人間のアイデンティティには二種類があります。一つは「同一性としてのアイデンティティ」で、記憶や身長体重、趣味や仕事などの、日記や履歴書に書けるような自分を構成する要素。もう一つは「自己性としてのアイデンティティ」で、主観的な世界が他の何者でもない形で開かれているその開かれのことで、自分は自分だと確信するもっとも強い根拠で、人が「私は私である」と言える条件です。
──話を戻すと、大人の関係のいやらしさは、ここで言う後者の「自己性としてのアイデンティティ」を弾いてしまってはいないか?
大人の関係はつねに「誰でもよさ」や「代替可能性」といった「人を相手にしていながら人を相手にしていない感じ」が付きまとっている。これを承諾して女やカネやと齷齪していられる感受性が、どこかいやらしいものに感じられるわけです。
例として、日本の政治家・官僚たちの処世術を引き合いに出してみましょう。彼らは建前と前例に靡く体質の組織のなかにあり、それなりの財力と学力を踏み台にして政治家・官僚になるわけです。元々は市民・国民のために奉仕しようと思っていたのかもしれない。この国をよくしてやろうという高潔な目標があったのかもしれない。
……ところがいざ組織に身をおいてみると、上の立場でさえも替が効き・後釜がいるような椅子取りゲームになっており、まともなことや新しいことに取り組もうとするや、席を奪われて失脚してしまう。それならば何もせずに建前と前例の通りで任期を過ごすほうが賢明だ……利口にも、そう考えてしまうわけですね。
以上のような対応は大人としては賢いと言えましょう。ところが、子供の側からすると、耐えがたいほどにいやらしいものだと感じてしまう
 

②大人の関係ではない「子供の関係」とは何か?

大人の関係を “いやらしい” と感じるとき、その感受性は大人ではない存在であるところの〈子供〉のものだと言えましょう。以下では、②大人の関係ではない「子供の関係」とは何か?へと関心を繋げていきます。

合目的な因果関係の連鎖とその結果を念頭に置く大人の関係

先走って言えば、「子供の関係」は、 “誰でもない君” を “代替不可能な形” で “人を人として” 相手にする関係性です
大人の関係では管理し・回避するべきものであったリスクに対して、子供は向こう見ずに乗っかり、やりたいことをやる。この素直さが大人の関係にはない。また、大人の関係がしばしば「欲望」に駆動され、子供のそれは「好奇心」に衝き動かされる。あるいは大人が「めんどくさい」と思って敬遠することも、子供は「おもしろい」と感じて熱中する。
例えば、子供に向き合う「悪しき大人」の行動原理がしばしば「欲望」をキーワードにして語られることがあります。また、欲望によって駆り立てられた行為には「意志と責任」が問われることも挙げておきましょう。これはいわば「法廷モデル」です。すなわち──
Q:あなたはなぜそんなことをしたのですか?
A:わたしにはこのような欲望があったためそれを行いました。
上のような訊問形式が行為の前提となり、何かしらの行為を行った場合に、そこには意志があったに違いないと想定され、その意志はある欲望から発生したものだとみなされ、そのような欲望を抱いた容疑者には然るべき行為責任がある。。。
ここで言うところの「行為」は “結果” のことです。大人は、行為によってもたらされた結果の責任を負う。だからこそ、結果を気にした物事の因果関係にこだわるようになりもする。意味、価値、対価、報酬、成功……e.t.c. 大人の関係とは、このような合目的な因果関係の連鎖とその結果を念頭に置き、社会と、そして他者(自分、他人、世界)と関係するのです。
 

大人からすればめんどくさい子供の気侭な過程志向

大人の欲望に対して、「好奇心」をキーワードに設定してみると、大人の欲望が対象を獲得したり特定の状態になるといった「結果志向」であることがわかります。それに対して、子供の好奇心は「過程を志向する」のです。
例えば、ある子供が遠足の日を楽しみにしているとしましょう。その子が楽しみにしているのは確かに遠足ではあります。しかし注意しておきたいのは、その子が楽しみにしているのは、遠足に行くことで得られる “結果ではない” ということです。では何かと言えば「過程(プロセス)」という話になるのですが、この過程にしても単に準備して・行って・帰ってくるまでのことなのではありません。そこには準備するまでの日々も含まれますし、遠足から帰ってきた後の日々も含まれもする、そうした意味での “過程” なのです。なので、まだ当日まで日が遠く、準備する必要さえない時期に遠足の予定されている日を数える時期にも過程です。また、遠足を終えて何年も経ってから後にふと昔行った遠足のことを思い出すのもまた、 “過程”
以上のような「過程志向の好奇心」には「結果志向の欲望」にあった “自己責任論” はありません。好奇心は人や物に巻き込まれてしまうのであり、計画性もなく、気侭に自分自身を表現する。だからこそ好奇心の対象となったものは人であれ物であれ、割り切れない・掛け替えのないものになるのです。とは言ったものの、大人からすればそれはめんどくさい。
 

めんどくさい関係になることを拒絶しない子供の関係

子供が関心を向ける対象がしばしば合目的的な大人からするとめんどくさいことであるように──雨の日に水たまりで跳ねる子供を親は叱るし、デパートで走り回る子供もまた親に叱られる──、子供が世界と取り結ぼうとする関係は無目的に見える。しかし、子供はそれがおもしろいし、何なら当人にさえ思いがけぬ形でその後の人生を生きる糧にもなったりして。
思いがけないものとの出会いは、大人になるほどに稀になるものです。慎みを覚えて分際を弁える。そして冒険するより身を固めることを選ぶようになる。他人と付き合おうとする上でも後腐れない関係を指向するのもそのためでしょう。安定している自分を変えられてしまうことへの恐れや危機感に怯えるからこそ、「それ以上の関係」になることを警戒する
しかし子供にはそのような打算や損得勘定はありません。子供の関係とは、好奇心を向けた人や物に対して退っ引きならない(めんどくさい)関係になることを拒絶しないことなのですから。
 

まとめ:めんどくさく・おもしろい・無目的な「子供の関係」

ここまで考えかんがえ書き滑らせてきたことはとても、とても極端な形でイメージした「大人/子供」の図式ではありますが、「大人の関係への違和感」と「子供の関係への羨望」は現代社会の風景としても馴染みのものなのではないでしょうか?
たとえば「夢を持て」や「自分を変える」「幸せになる」というメッセージには、どこかしら大人になって社会に適応しようとしての幻滅や不全感が伴っていたはずです。決まったことを決まったようにやる大人の自分にうんざりし、やりたいことをやりたいようにやる子供に戻りたい。それは自分を変えたいこと、夢を持ちたいこと、それから幸せになりたいことの裏返しと言っていいでしょう。
吾人は、この記事の冒頭で、社会は小学校の教室の延長であると述べつつ、「子供がそのまま大人になっている」という人間観をどっかから引っ張ってきました。子供がそのまま大人になっているというのは、「子供ではないのに子供のままでいる」だとか「大人なのに大人になりきれていない」だとかを言うのではありません。そうではなく、「子供で(も)あるのにそのことを無視して大人になろうとする」だとか「大人で(も)あるのにそのことを忘れて子供であろうとする」だとかを言いたいのです。前者は、大人の顔色をうかがうことを覚えたり、子供らしからぬ振る舞いをして背伸びをする子供の姿。後者は、子供の記憶から距離を取れずに庇護者に甘えたり、大人らしからぬ言動でもって腐れたりする大人の姿。
最後に、もう一度「大人の関係」について思い出してみましょう。大人の人間関係とは、金銭が間に入ってくる後腐れのない関係であり、権力指向であり、結果志向であり、「誰でもよさ」や「代替可能性」といった「人を相手にしていながら人を相手にしていない感じ」が付きまとっていて、いやらしいものである。これらを象徴するキーワードが「女とカネ」になる。それらを差し引いた、めんどくさく・おもしろい無目的に集えるものが「子供の関係」……こう書くことで、終わり。
 

さいごに

春先はどうにも文章に花粉のような余分箇所が付着しやすい気がする。それとも書いているときの脳髄に?  “まとまっている” 記事が求められるのは特にWeb記事だという常識に反旗を翻しでもするように、まとまらないでいるのは大変とほほ。この記事の発端は「大人の関係」という言葉への反発からでした。それなら「子供の関係」っていう概念を工作しちゃえ!と思って書きはじめたのです。そうしたらあなた、季節は花粉の舞う心、くしゃみと洟水にもどかしくなって、もどかしいなあもどかしいなあ、と書き進めましてこのザマです。こんな長くなるつもりはなかったのに!ヽ(;▽;)ノ
_了

関連資料

本編で唐突に出てくる「同一性としてのアイデンティ/自己性としてのアイデンティティ」は、フランスの哲学者ポール・リクールの「同一性としての自己同一性/自己性としての自己同一性」という概念に由来する。由来はするものの筆者の記憶に脚色されているため、本家の使用する語感とは必ずしも一致しない……かもしれない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました