「夫婦は他人だけど親子は他人じゃないから」に反論する【毒親対策】

小説
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こんにちは、ザムザ(@dragmagic123 )です。今回は山本文緒の小説『群青の夜の羽毛布』を紹介します。紹介するといっても本編がどう面白いのかは語りません。
ではこの記事には何が書かれているのかというと、ズバり毒親の毒素を解毒するためのヒントもしくは対抗策です。
「あなたの親でしょ?」と追い詰めてくる親に対して、たじろがずに「だから何なの?」と言い返すための武器を配るのが、この記事の目的です。お楽しみください。

「夫婦は他人だけど親子は他人じゃないから」に反論する【毒親対策】

 

この記事で取りあげている本
 

「あなた達は血が繋がっているじゃない」ってヘンじゃない?

作家・山本文緒に『群青の夜の羽毛布』という小説作品があります。恋愛小説なのですが、メインはむしろ自立できない娘と、彼女に対して支配的な母親との関係性にある、そんな物語。「毒親」という言葉を聞いたことがある方ならピピッとくるのではないでしょうか。 “そういうやつ” です。
今回、『群青の夜の羽毛布』を取りあげるのは、そんな毒親家庭の中でのある一幕が興味深かったからです。それというのは、娘に対して放った母親の次の一言でした。
「お父さんと私は他人よ。あなた達は血が繋がっているじゃない」(p275)
補足しますと、この家庭は父母姉妹で構成された核家族なのですが、父親に問題があり、その世話をほとんど姉一人がこなしているのです。上のセリフは見かねた妹が母親に問い詰めたところ、当の母親が言い放った言葉なのでした。
でも、これって、“ヘン” じゃないですかね?
母親の理屈としては血の繋がりがあるんだから、親の世話をしてトーゼンだろう、と言いたいわけです。これは自分を産み育ててくれた親には孝行をして然るべきだという、儒教的な独特観念に基づいたジョーシキ、ですね。
意地の悪い言いかたをすれば、親としては老後生活の世話人を育てているようなものです。子供の側からすれば、親から与えられた愛情の全てが一瞬で欺瞞に様変わってしまいかねない考えかたと言っていいでしょう。
しかも厄介なことに、この考えかたに納得させられてしまう子供もいます。たとえば『群青の夜の羽毛布』のヒロインも “そういうタチ” でした(詳しいところはじっさいに小説の方をご覧いただければと思います)。
たしかに、子供にとって親の存在は計り知れないほどに大きいです。とくに、自立できているのであれば「優しくて尊敬できる親」だとしても、自立できずに依存した暮らしをしている子供にとっては、「恐ろしくて支配的な親」になることも。ひどい場合には一緒にいるだけで気力が削られることだってあるでしょう。世間的にはそんな親を「毒親」と呼んだりするわけです。
 

「生まれたから責任がある」に対する有効な反論・考えかた

では、そんな毒親の主張──血の繋がりがあるんだから、親の世話をしてトーゼンだ──に対して、どのような反論があるのでしょう?
このことを考えるのに、一つ、知人の例を挙げてみます。
その家族の構成は父母兄弟の四人でした。
弟は家を出ることを決めており、家を継ぐのは兄である。父母はそれを自分たちの間に生まれた当然の結果として考えている。婿としてこの家に入ったのは父で、稼業があるのですがそれは母が担っています。
そして、この家庭の問題には、父は外の付き合いに血道を上げ、母の稼業を手伝わないでいる、というのがありました。
ある日。兄はこの父から責められます。「おまえは長男なんだから母親の手伝いをしろ」。
ここには『群青の夜の羽毛布』と同じく、血筋を取りあげてこの家に生まれたのだから、負うべき義務と責任がある、という主張が見つかります。
しかし、この長男は反論をしました。
「俺はたしかにこの家に生まれた。それは事実だ。けれど義務と責任の話で言うなら、あんたにはこの家に婿としてやってきた義務と責任がある。あんたは母の仕事を手伝わないが、それは彼女の夫として、この家の婿として、一家を代表する旦那としてどうなんだ?」
彼は続けます。
「俺はこの家に生まれた。けれどそれは俺の自由意志でそうしたわけじゃない。その意味で責任はない。たしかに育ててくれたことには感謝があるべきだと思うし、そこに多少の義務があってもおかしくないと思う。ただ、あんたはこの家に自分の意志で婿入りしたじゃないか。そこには生まれることよりも強い責任と義務があるんじゃないか?」
ようするに、親子の絆(血縁)よりも夫婦の絆(約縁)のほうが意志による決定があるぶん責任が伴うのではないか、と語っているのですね。
以上の家庭は『群青の夜の羽毛布』と幾つかの前提が異なっています。なんなら毒親とはみなされず、一般的な家庭だと思われるかもしれません。しかし、あの小説と同じ「この家に生まれたのだから、負うべき義務と責任がある」と説得する向きに対しては有効な反論・考えかたではないでしょうか。
 

そもそも血の繋がりより婚姻関係のほうが責任あるのでは?

『群青の夜の羽毛布』での母親のセリフである「お父さんと私は他人よ。あなた達は血が繋がっているじゃない」に対して、逆にその “血の繋がりを突きつける” ことによって反論する。これが当記事で紹介する処方箋、もしくは親の毒に対する解毒剤になります。
改めて整理すると、夫婦間に血の繋がりがないものの、親子間には血の繋がりがあるというその事実を引き合いにして説得することは、ヘンです。なぜなら、親が子供を選べないように(デザイナーベイビーなどを考慮すれば可能であるとも考えられる)、子供もまた親を選べないのですから。
しばしば作者の不祥事によって作品が規制されることがありますが、作者が作品をつくる能力(=子供をつくる能力)はあっても、作品が作者を決定する能力はないことと同じです。作品には罪がないのに、作者の罪によって罰されることもある。いわば、こうした構造が、親子間の血の繋がり問題を導くのです。
しかし、夫婦間では事情が、というよりも “構造” が違います。親子関係での(まるでガチャを引くような)お互いの選べなさは、夫婦同士にはありません。お互いの全てを曝け出すのではないとは言え、相互の合意があって初めて成り立つ関係です(「親ガチャ」という言葉もありますね)。
肝心なのは、人が夫婦になる際はガチャのような偶然の関係にはないということです。結婚してから相手のこれまで知らなかった部分が見えて幻滅するというのはあれど、むしろそうした可能性も含めて取り結ぶのが婚姻関係というものでしょう。ここには自由意志がある(なければそもそも約束や誓約の意味がない)。この点において夫婦関係は親子関係とは一線を画します。
以上を踏まえて『群青の夜の羽毛布』の有毒な母親に反論するとしたら、このような会話となるでしょう。
「お父さんと私は他人よ。あなた達は血が繋がっているじゃない」
「血が繋がってるから何なの? お母さんは自分の意志であの人と結婚したんじゃない。自分の意思で他人じゃなくなることにしたんじゃない。娘の私たちは自分であなたたちの間に生まれることにしたわけじゃない。お父さんの面倒を見る責任があるとしたら、自分の意思で一緒になることを決めたお母さんのほうだよ」
こう言われた母親はどんな反応をするのでしょうか。『群青の夜の羽毛布』を読む限りでは、先の母親はヒステリックになるんじゃないかしら、と、ここでは述べておくことにしましょう。なお、上で挙げた父母兄弟の家庭で闘わされた言い合いでは、父親のほうがムスッとして沈黙していたようです。
 

おわりに

『群青の夜の羽毛布』はおもしろい小説です。映画にもなっていて、家族にわだかまる闇を描いています。この記事では物語がどう面白いのかは触れませんでしたが、読めばより鮮明に、親と闘うための戦略ビジョンがわかるかもしれません。全国の迫害されしチルドレンよ、立ち上がれ!(なんつって)
_了
 

関連資料

不安定な娘と支配的な母親の関係。その娘にできた恋人。この三者が牢獄のような家を巡って「心中するか、脱獄するか」のドラマが展開される小説。張り詰めた緊張の家族関係を覗くような面白みもあれば、まさに(母)親との関係に苦しむ人にとっては共感の物語でもある。
劇場版。本上まなみをヒロインに据え、玉木宏がヒーロー。2002年の映画なので、展開の面白さもあるが、知っている役者の若い姿を楽しむ向きもあるだろう。家族に思うところのある人ならば少し長いレビューを書いてしまえそうな佳作。
この記事には直接の言及はないものの、親子関係の非対称性について学べるところの多い哲学書。親は子を選べるかもしれないが、子は親を選べない──この構造を掘り下げていく、家族をテーマにした哲学を楽しめる一冊。
まさにタイトルが内容を物語っている。母は娘の人生を支配する。『群青の夜の羽毛布』の副読本と言っても過言ではない。母娘関係がどれほど根深いものなのかを分析している、著名な精神科医の本。これを読めばあなた「仲良し親娘」なんて言葉に騙されなくなることだろう!

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