【豆塚エリ/小説】役に立つかで障害者をみる思想|+相模原事件

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障害者は社会との関係で起こるものです。障害を抱えている人にとって厄介なのはいつだって社会の側にある。たとえば世間の目なんてものがそれですね。さらに厄介なことに、わたしたちは健常者・障害者にかかわらず、他者の目を通して自分自身を見たりしがち。だから障害者であること自体に自己嫌悪に陥ったりしてね豆塚エリの小説『いつだって溺れるのは』でも障害者が登場しますが、「障害に甘えるな」とか「逆差別だ」とかってことを言われて苦しんだりして。今回の記事ではその小説に出てくる価値観が「相模原事件」の犯人の思想との共通点を取りあげます。
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【豆塚エリ/小説】役に立つかで障害者をみる思想|+相模原事件

豆塚エリ『いつだって溺れるのは』から

豆塚エリという人物がいます。……と書き始めましたが、彼女についてはひとまず以下の一節を引くことによってご確認いただくことにします。
1993年、愛媛県生まれ。16歳のとき、飛び降り自殺を図り頚椎を損傷、現在は車椅子で生活する。大分県別府市で、こんぺき出版という出版社を営み、詩や短歌、短編小説など精力的に執筆活動を行なうほか、テレビ番組でコメンテーターを務めるなど、幅広く活動中。
飛び降り自殺を図り、現在は障害者の身分になっている。注意しておきたいのですが、これだけ読んで「何やってるんや、こいつは…」みたいな目を向けるのは “よした方がいい” ということです。
これはまぁ、「人それぞれ事情があるよね…」といった姿勢でもあるのですけれど、それ以上に彼女には詩や小説をつくる制作者として、飛び降り自殺したことも車椅子生活を送ることになったのも「自分を肯定するための表現だった」と他者に納得させるだけのエネルギーを持っているのです。
今回目を向けてみるのは2016年次の「第三十二回太宰治賞最終候補作」になった豆塚エリの小説作品『いつだって溺れるのは』です。
話は頸椎損傷した著者の経験を材料にしたもので、彼女自身を知っている人からすれば、豆塚エリという人格が色濃く反映したものとして読める類いの作品。さながら、太宰治の小説が彼の生きた人生から眺められるものであったように。──これが太宰治賞の条件になっているのかは分かりませんが、連想することはできるかもしれませんね。
小説の内容は、障害者ではなく一個の私である女性の自立を描いたもの、と言い表せます。
頸椎損傷して障害者となった葉子が、介護職の男・修司と結婚して同棲している。葉子は障害者年金でマンションの家賃を出しているものの、修司の世話になっていることに負い目を感じている。しかし「めんどうくさがり」な葉子と「ぶっきらぼう」な修司の生活は、葉子の我慢によって成り立っていた。そんななか、通っている病院の待合室で高村という五十代くらいの男と出会い、浮気。高村を愛するなかで急速に夫との生活が “ムリ” だと気づいていき、葉子はめんどうくさいこと=修司と向き合う決断をする。
たとえば、上記のような形で紹介することもできる作品ですが、以下では特に修司と葉子との関係に現れる「役に立つこと」と「障害者としての私」という読みどころに目を向けるかたちで、「役に立つかどうかで障害者をまなざす」視線がヤバいということを取りあげます
 

障害者は「役に立つかどうか」の思想:相模原事件との比較

ここでは豆塚エリの『いつだって溺れるのは』から、「障害者も健常者と同じように生きるべき」という「ひとの役に立つかどうか」の価値観を取りあげ、これを相模原事件の植松聖被告の思想と比較してみます。

障害に甘えずに世間の役に立つべきだという価値観

夫である修司は「役に立つ」ことに熱心でいます。役に立つ人間であらねばならないと考え、妻である葉子に対しても「障害に甘えちゃいけない」と詰めよるのです。そして自分は介護事業所を立ち上げるのだと語り、葉子に対して働ける場を作ってやろうと、上から目線。──そう、修司が役に立ちたい相手というのは葉子ではなくて、「世間=ひと」に対してなのでした。
お世話になっている “申し訳なさ” と “面倒くささ” から修司との関係に波風を立てたくない葉子は、結婚生活を送るなかで修司への愛情に疑問を感じていきます。
作中、葉子は「愛」と「情」とを分けて考えるクセがあるのですが、これは以下の箇所から、おおよその味わいがわかるのではないでしょうか。
愛なんかじゃない、愛なんかとっくに冷めた。情しか残ってない、それも残りかす程度の。」(p327)
今、修司に感じているのはただの情だ。習慣の延長だ。」(p336)
どんなに愛着があったとしても、壊れてしまえば取り換えるほかない。取り換えてしまえばもとのものなんて案外簡単に忘れてしまうものだ。」(p336)
ここで言われている愛と情は、「愛情」と「人情」くらいに翻訳してみると納得できるかもしれません。結婚生活のなかで、愛情は失われつつある。失われた愛情を補修しようとして、葉子は子供を欲しがる。「子は鎹(カスガイ)」だとでも言うように。また、別の人物からは葉子の夫婦生活を「面倒を見てくれていることへの感謝を愛情だと思い込もうとしているのではないか」と指摘されもするのでした。
こうしたすれ違いにおけるもっとも深刻な問題点を整理するなら、修司が「世間=ひと」の役に立とうとするばかりで、一緒に生活する「葉子=きみ」の役に立とうとしなかったことです。
人の優しさは不特定の〈ひと〉に対する優しさで他人から納得されるものではありません。特定の〈きみ〉に対して優しくできるのか。この点から納得されるものでしょう
しかし修司はこう考えるようです。
「修ちゃんはね、私に自立して欲しいって思ってるみたい。だから、障害者でも健常者と同じように生きるべきだって」
生きている以上、人の迷惑になる。だからその恩返しに社会に貢献しなくてはならないと、修司はいつも言っている。
(『太宰治賞2016』,p295)
修司のこの考え方、聞き覚えはありませんでしょうか? そうです。2016年にあった「相模原事件」の犯人・植松聖被告の考えに似ています。
 

相模原事件の容疑者の「逆差別」思想と比較する

植松聖被告は重度障害者を「心失者」と名付け、生産性もなく、世のため人のためになっていないという身勝手な思想から、犯行に及んだ、あの人物の考えに。
作家・雨宮処凛による『相模原事件裁判傍聴記』を開いてみると、修司と同じく、「社会への貢献」に重きを置いていることがわかります。
植松被告は、障害者が自分と比較して「守られて」いるように見えたのではないか。守られ、ケアされる存在。かたや自分はどこにも守られず、剥き出しの競争社会に投げ出され、「自己責任で勝ち抜け」「役に立つ人間でないと生きる資格などない」という脅迫を日々受け、値踏みされている。毎日、毎分、毎秒。社会の物差しは「役に立つかどうか」だけではない。見た目だって評価の対象になるから彼は美容整形と医療脱毛にも励む。そして必死で「努力」している彼の目に、障害者は「努力せずに生きることを許されている特権階級」のように見えたのではないか。
(『相模原事件裁判傍聴記』,p219)
興味深いことに、『いつだって溺れるのは』における修司は、上に引用した障害者が「努力せずに生きることを許されている特権階級」のように見える感覚を「逆差別」という言葉で言い表しているのです。逆差別は読んで字のごとく、本来差別から守ってあげねばならない立場の人を守ろうとすることで、逆に健常者の側が差別を受けることになる、といった意味。植松被告もまた、健常者が幸福に生きる権利を「阻害する存在」として障害者のことを考えていたことを思うと、ダブって見えるようではありませんか。
障害者は多くの場合、健常者(の生活様式)との比較のもと、差別が生じます。それは左利きの人が右利き向きに設計された環境でマイノリティーの立場に置かれるように、ことあるごとに “不能者” だと思い知らされてしまうような。──しかしこれは作中でも触れられているように、個人の問題ではなく、あくまで社会の問題
とはいえ、問題ある社会でも社会は社会であることも事実。この事実をベースにした「世の中」「世間」「人の目」つまりは〈ひと〉が作られていくことも確かです。こうした〈ひと〉のために役に立とうとすると、植松被告や修司のような「思想」もできるのでしょう
とどのつまり、『いつだって溺れるのは』のヒロイン・葉子が抜け出そうとする “檻” とは何かと言うと、以上見てきたような〈ひと〉であり、修司であり、役に立つとか立たないとか思わせてくる「自分の現実」だったのです。そして、そこから抜け出すキッカケをくれるのが、〈私〉を見てくれる高村だった。
 

まとめ

最後になりますが、豆塚エリが『いつだって溺れるのは』を公のものとして発表された、『太宰治賞2016』の刊行が6月16日でした。そして植松聖被告が「相模原事件」を起こしたのは7月26日。わずか1ヶ月後なんですよね。むろん関係があるなんてことを言いたいわけじゃないですが、小説の登場人物・修司が見せた価値観は、豆塚が “身に覚えがある” ことだったのではないかと想像すると、この社会が植松被告を実在させるに足る要素を含んでいたのだろうな…と空恐ろしくもなります。そういうわけで、やまゆり園での悲劇以降を生きているわたしたちにとっては、『いつだって溺れるのは』という小説をあの事件に関連させてしまえるだけの想像力を持ってしまっているのも本当なのです。
_了

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