【当事者であることの愉悦】誤作動する私に抗う感受性のために

エッセイ
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当事者研究ってのがあります。病気や障害、生きづらさを抱える人が、専門家の説明に頼らずに自分自身を研究することです。レビー小体型認知症で幻覚症状の当事者である樋口直美の自己研究書『誤作動する脳』では、「誤作動する脳」に対して、〈私〉の感受性を育てていくことで自分の症状を「おもしろい」と感じるようになる過程が描かれています。つまり「私を誤作動させない工夫」を紹介した本なのですね。そしてこの記事では、そのような当事者研究を通して生きづらさとの折り合いを付けた場合に、「当事者であることの愉悦」があるのではないか、ということを取りあげます。
この記事で取りあげている本
 

【当事者であることの愉悦】誤作動する私に抗う感受性のために

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誤作動する脳を持つということ

レビー小体型認知症は、症状が人によって多種多様、初期には記憶障害が目立たず、違う病気に診断される患者が少なくない。──認知症のなかでも稀少な部類である、とのこと。今回取りあげるのはそうした障害を持つ当事者・樋口直美による当事者研究の書『誤作動する脳』です。
樋口さんにとって特に生活の支障になったのは幻覚でした。他の人からすればそこに見えないものが見えてしまう、存在していることになってしまう、そんな世界の中で味わう孤独感、疎外感、そうしたものがヤバかったのでした。
とはいえ、『誤作動する脳』の文章を追っていくと、樋口さんがそれなりに自分の生きづらさと折り合いを付けていく姿が描かれています。自分の病気や障害がわかれば、それに付随して知識の糸口もわかる。すると「自分の脳はそういうふうになっているのだ」とわかってくるのです。
以下では、『誤作動する脳』の中で紹介されているレビー小体型認知症による幻覚症状の当事者・樋口直美の当事者研究を参考にして、自分自身の病気・症状・生きづらさを楽しもうとする研究姿勢や当事者研究の社会的意義を取りあげます。
 

誤作動する私に抗う感受性のために

ここでは『誤作動する脳』を参照しつつ、幻覚の当事者である樋口直美が、自身の生きづらさとどのように折り合いをつけてきたのかをうかがいます。前半では症状をおもしろがある感受性の話から、当事者研究の意義を取りあげ、後半では「誤作動する脳」に対して、健康でいるための〈私〉の「考え行動する活動」に注目します。最後に、自分の生きづらさを「おもしろい」とさえ思う姿から、当事者であることの愉悦に言及します。

当事者としての感受性〜当事者研究の意義

樋口さんは自分が見ている世界に現れるものをつねに疑いのまなざしを向けることができ、疑心暗鬼に陥ったとしても変ではない、のですが、彼女は逆に親しみを覚えるようになるのでした。そうした感受性の萌芽について、樋口さんは次のように描写しています。
散歩をしていて、葉っぱの上にあまり見かけない大きな芋虫を見つけたことがありました。コロコロと太った姿がかわいくて、「おまえ、本物か?」と声をかけました。芋虫は返事をしませんが、消えずにそこにいてくれました。無言で私に寄り添ってくれているかのようでした。
幻視に翻弄された日々だったのですが、そこに惹かれる部分も、じつはわずかにあったのです。自分の意思に関係なく、実在しないものが突然見えるという未知の現象を「おもしろい」と思っている別人格の自分が、打ちのめされている自分のなかにも確かにいたのです。この不思議な現象が何なのかを知りたい、突き止めたいという思いも、初めは小さな芽でしたが、その後グングン伸びていくことになりました。
(『誤作動する脳』,p68-69 )
未知の現象を「おもしろい」と思っている別人格の自分がいる。その感受性に気づいて、窓辺のヒヤシンスに水を遣るみたいに育てていこうとする。
自分の症状と向き合うなかで、それを人に伝えることもし始めた結果、樋口さんは他の人にとって自分の症状は価値のあるものなのだと知るのです。
私は興奮していました。私のこのおぞましい症状は、私が語ることによって有益なものになるのです。苦痛でしかなかった私の負の体験は、私以外の人にとっては、高い価値のあるものになり得るのだと知りました。
「理解などしてもらえない。理解などできない」というのは誤った思い込みでした。理解したいという気持ちのある人には、何の壁もなくきちんと伝わるのです。幻視という不思議な現象を、「おもしろい」と感じる気持ちさえ共有することができたのです。
(『誤作動する脳』,p74)
病的とされる〈脳〉がもたらす「おぞましい症状」でも、〈私〉が語ることによって “有益なもの” になる、 “高い価値のあるもの” になる。ここで勘違いしたくないのが、誰かの「役に立つ」から語ることに意味があるのではないということです。そうではなく、当人にとって負の体験であってさえ、そこにはなんらかの楽しみ方があり、現に「おもしろい」と感じている感受性がある──その事実が有益で、価値があるのです
当事者研究というのは、専門家が既存の研究に照らし合わせて成果を発表するのではなく、なんらかの(多くは生きづらさに結び付いた)当事者性を対象にした自己発見の営みです
これは当人以外には意味がないように見えるかもしれませんが、他の人への、あるいは社会的な意義としては、「当事者が自分の当事者性のうちにどのような〈おもしろさ〉を見出しているか」を提出している点にあります。そして “楽しんでいる姿” が持つ影響力もしくは感染力において、他人もまた自分の当事者性を見直すきっかけになる、その点において意義があるのです
 

私と健康を結ぶ感受性〜当事者である愉悦

〈脳〉のことは仕方ない。しかし、人間は脳で生きているのではなく、〈私〉によって生きている。人と話すのは脳ではなく私ですし、鏡を覗けば脳ではなく私が映ります
〈脳〉が幻覚を見るようになっている。なら、それはひとまずそういうものとしていいとしよう、仕方ない。それでも問題があるとしたら、それは〈私〉の管轄だ。私の感受性の問題だ。「おもしろい」と思ったが勝ちなのだ。
「理解などしてもらえない。理解などできない」と思ったのは〈脳〉ではなく〈私〉でした。誤作動しているのは〈脳〉ですが、「語ること・伝えること」を諦める判断を下す誤作動を起こしていたのは〈私〉だったのです。──だからこそ、問われるべきは私の感度、私の感受性になる
うつ状態になっている人をイメージしてください。
ときに人は「死にたい」と思うことがあります。これはしかし「脳の誤作動」であることが多く、脳がそういう状態になっているから、そういうふうに思ってしまう。他方で、じっさいに自殺しようとするのは「私の誤作動」にあたります。脳がそうなってるから、私のほうでもそういう行動を起こす。これは間違いです。なぜなら、ここには何もおもしろいところなどないのですから。(※ここで間違いと言われているのは「私の行動」であって、「私=人格」に対してではありません。)
おもしろさは感動である。感動とは、感じたものに動かされる体験です。誰かが自殺したニュースを聞いても人は感動しませんし、ショックを受けることこそあれど、そのときの衝撃はむしろ行動させない力として働く。だからこそ、自殺は良いものではないのですね。
良し悪しの話で言えば、誤作動する脳については良いも悪いもなく、困っているのか、それとも折り合いをつけてうまくやっているのかの違いこそあれど、ただそこに “当事者である人” がいるだけです。そこに良し悪しがあるとすれば、「誤作動する脳」に対する “私の態度” によって左右されることになるでしょう。正常な動作のできる私なのか、誤作動した私なのか。この違いがあるわけです。
だからこそ、「私の感受性」が大切になってきます。良い感受性があれば、私が誤作動しかけたとしても、「そうじゃないんだ」と考え直すことができるのですから。または、その誤作動にも “意味があるのではないか” ということにも関心を向けることができるでしょうから。あるいは「おもしろがる」ことだって、できるかもしれないのですから
誤作動する脳に対して、〈私〉というものがありながら「そうじゃない」と意思表明しないなんてのは、それこそ「宝の持ち腐れ」です。否定することを疎かにしてはいけません。そうしないのは誤作動する脳の言いなりになることでしょう。誤作動を起こす脳の “言いなりにならない” ための思考・判断を〈私〉がおこなうのですね。
人は健康を目指します。たとえ体や脳が正常ではないにしても。健康を目指して、「考え、行動する=活動」しなければならない。そうなれない原因が〈脳〉にあるにしても、そうあろうとする理由を考えるのが〈私〉です。それこそが誤作動してはいない、考えて行動し健康に向けて活動する、正常な〈私〉であるということでしょうから。
ここまでの話をまとめれば、〈私〉と〈正常〉と〈健康〉とを結びつけるものが「感受性」になります
『誤作動する脳』において樋口直美が実践したことこそ、自身の感受性を成長させるというものでした。その結果として、幻視という不思議な現象を「おもしろい」と感じるようになり、さらには、そんな気持ちさえ他人と共有することができるようにもなったのですから。ここで見つかるのは樋口直美という〈私〉の正常な働きや健康が、誤作動する脳に抗いつつ折り合いをつける姿なのです。
人が『誤作動する脳』を読むときには、いや、当事者研究に触れる全ての人が感じることなのかもしれませんが、そこには一種の羨望があるのではないでしょうか。「なんだ、苦しんでいるのかと思ったら、案外楽しそうじゃないか」なんてふうに。そして自分自身の穏当な現実と比べてみたときに、向き合うべき明確な障害がないことに寂しささえ感じることもあるかもしれません。──そのとき、当事者であることには密かな(もしくは確かな)愉悦がある、のかも。
 

まとめ

脳は私かもしれませんが、私は脳ではありません。脳が誤作動を起こせば私までおかしくなるかもしれませんが、いかなる場合でも脳の誤作動に付き合って私が誤作動する必要もありません。ここでの〈脳〉は「体」と言い換えてもいいものです。樋口直美は自身の障害の当事者として、彼女自身の感受性によって、自分自身の現実をおもしろがりました。その研究報告書である『誤作動する脳』を読むとき、読者は一種の羨望を感じてもおかしくないでしょう。なぜなら彼女は楽しんでいるからこそ、一冊の本になるまで向きあうこともできたのでしょうから。なんなら、そこには当事者であることの愉悦さえあるのかもしれません。
_了

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