映画ギヴン|才能に苦しむ男たちと共鳴のためのサウンド・メイキング

画の紹介
©︎ Lerche
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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。みなさんはボーイズラブ(BL)はお好きでしょうか。今回わたしが楽しんだのはBLアニメ映画でした。キヅナツキ原作の漫画で、山口ひかる監督作品の劇場版『映画 ギヴン』という作品です。……とはいえ、(例によって?)多くのファンとは違ったおもしろがり方をしてしまっているかもしれません。
『映画 ギヴン』を見てわたしが感動したポイントは、おもに「表現活動における才能の意味」でした。登場人物とのやりとりはモチーフになっている《音楽》も含めて、表現に関わろうとする若者同士の間に展開されるコンプレックスの絡まりあいは、わたしにはこの映画の切なるコンセプトとなっているように感じられました。──ゆえに、この記事で取り扱うのもまた、《才能》にまつわるエトセトラとなります。
(※なお、本文中では『映画 ギヴン』ではなく『ギヴン』の表記をとり、映画版をとくに指す場合には「映画『ギヴン』」という書き方をします。また、映画本編のネタバレに関する記述もあることをここに記しておきます。原作漫画を通してご存知以外の方はご注意ください。)
この記事で取りあげている画
山口ひかる『映画 ギヴン』,Lerche,2020

©︎アニプレックス

この記事に書いてあること
  • 『映画 ギヴン』はロックバンドで音楽活動をする4人の若者を中心に展開するBL青春群像劇だ。アニメ版ではバンドメンバーのうち高校生の二人が照明され、劇場版では大学生と大学院生の大人組が照明され、音楽的才能をめぐるコンプレックスや表現にたずさわることの厳しさをコンセプトにしている。
  • 表現者は伝えたいことを的確に表現できるかどうかが問われる。その際、才能人にはその作品で伝えたいことが的確に表現できたかどうかについての絶対的な感度があり、逆に才能のない凡庸人はそうした感度が相対的で、既成の評価枠や既に評価されたものと合っているかどうかに気を配ることになる。
  • 人を共鳴させるやり方は理屈ではない。理屈ではなく聞き手に届けてしまうのがサウンドの力だ。サウンドは象徴的な意味のコードを超えてじかに生理的感覚に根ざした情動をゆさぶる。それゆえにサウンドの総体として聞かれることになる音楽は、意味の理解に頼る言葉よりも強く人を共鳴させるのである。
 

映画ギヴン|才能に苦しむ男たちと共鳴のためのサウンド・メイキング

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『ギヴン』の基本情報

 『ギヴン』は、主にボーイズラブ(以下BL)作品を掲載している漫画雑誌『シェリプラス』において2013年から現在(2020年9月16日)に至るまで連載中のキヅナツキによる漫画作品であり、後にメディアミックスがされてドラマCDやテレビアニメ化などといった展開がされています。
 内容は、ロックバンドのメンバーたちを中心とする青春群像劇です。BL作品ということもあり、登場人物同士の絡みに同性愛的なニュアンスがあります。作品のタイトルになっている「ギヴン」は作中のバンド名である「given」に由来すると言っていいでしょう。
 givenのバンドは四人組で、高校生二人と大学生・大学院生二人の大人組から構成されています。また、アニメ版では主に高校生である二人の関係がメインとなり、比較的ライトでプラトニックなものであるのに対して、映画版だと大学生・大学院生の二人が照明され、やや重たく濃厚でフレンチな恋愛模様が描かれています
 また、フジテレビが “連ドラのようなアニメ” をコンセプトにし、数々の名作アニメを送り出してきた「ノイタミナ」という深夜アニメ枠がありますが、『ギヴン』は、2005年より始まったノイタミナアニメ枠史上初のBLコミック原作のアニメでもあります。
 

登場人物

ここでは劇場版『ギヴン』にメインで登場する人物を紹介します。
・佐藤真冬…高校生。バンド「ギヴン」でボーカル&ギターを担当。立夏と付き合ってる。
・上ノ山立夏…高校生。バンド「ギヴン」でギターを担当。真冬と付き合っている。
・中山春樹…大学院生。バンド「ギヴン」でベースを担当でまとめ役。
秋彦に密かな片恋中。
・梶秋彦…大学生。バンド「ギヴン」でドラムを担当。大学ではヴァイオリンを専攻。雨月にコンプレックス。
・村田雨月…天才ヴァイオリニスト。かつては秋彦と付き合っていた。別れた現在も同居は継続中。
 

あらすじ

ここでは劇場版『ギヴン』にメインのあらすじを紹介します。
高校生の上ノ山立夏は、佐藤真冬の歌声に衝撃を受け、
 
中山春樹、梶秋彦と組んでいるバンドにボーカルとして真冬を加入させる。
 
真冬加入後初のライブを成功させ、バンド「ギヴン」の活動が始動する中、立夏は真冬への想いを自覚し、ふたりは付き合い始める。
一方、春樹は長年密かに秋彦に想いを寄せていたが、秋彦は同居人のヴァイオリニスト・村田雨月との関係を続けていて・・・。
 
スクリーンで、春樹と秋彦、雨月の恋が軋んで動き出す――!
 
 

天才 〜表現活動における才能

©︎ギヴン製作委員会

 劇場版『ギヴン』では、表現活動をするに当たって浮かび上がる “天才であること” あるいは “才能があること” が何であるのかへの問いがあります。具体的には、ストーリーのメインとして証明される中山春樹と梶秋彦の心情に、それぞれ “才能の有無” についての屈託があるのです。
 より解像度を上げると、天才ヴァイオリニストである村田雨月に対する梶秋彦の関係、および中山春樹の自身が属する given のバンドメンバーに対するコンプレックスという形で、才能というもののある種の残酷さが示されるのです。そして、どちらにも共通するのは “才能のある表現者を前にしたときに感じる自分の才能のなさ” という屈託でした。
 以下では己の非才を嘆く中山春樹と梶秋彦の姿と、才能ある表現者である村田雨月ならびに佐藤真冬の言動とを適宜参照しつつ、映画『ギヴン』において見出すことのできる「表現活動における才能の意味」のコンセプトを検討していきます。

才能があるということ

ここでは映画『ギヴン』において描かれている才能人のあり方を確認します。それと同時に、凡庸であるとはいかなることかも見ていきます。

才能人:感度の絶対性

 ストーリーの序盤に、バンドの曲を作った佐藤真冬が天才ヴァイオリニストである村田雨月に対してアドバイスを受ける場面があります。この時に真冬が雨月から教わるのは「人を共鳴させるやり方」でした。──ここでの《共鳴》が音楽、楽器などのモチーフに連なる形で、「表現活動における才能」というコンセプトに奉仕するひとつのキーワードになります。
 才能のある雨月のアドバイスは冷徹なものでした。真冬が作った曲を聴くやすぐにその曲である〈表現されたもの〉を通して〈伝えようとしているもの〉を見抜き、それを表現するために不足している箇所および技量を指摘してみせる。言い換えると、ここでの雨月は〈表現された作品〉のなかに “伝えたいこと(テーマ)” を読み取り、〈表現する作者〉に要請される “表現する力(スキル)” を診断している
 つまり、『ギヴン』で雨月が真冬に対してアドバイスをした場面から読み取れる天才・才能人とは、絶対的とも言っていい感度で作品が伝えようとしているテーマをキャッチし、そのテーマに見合った美質を作品が備えているかを見ることができるのです。
 逆を言えば──鑑賞者としてではなく、作り手としての視点からすれば──、表現者としての才能人は自分が着手する作品で表現しようとしているテーマが、絶えず作品のうちに的確に反映されているかに敏感でいると言っていいでしょう。そしてそれを達成したときに彼はそのことを断言できるだけの感度を備えてもいるのです。
 

凡庸人:感度の相対性

 天才・才能人が絶対的な感度でもって作品のテーマとそれを表現するために必要なスキル及び修正点を見いだす。だからこそ、確証を持って「これは間違いである」や「これは駄作である」などの判定ができる。たとえそれが “感覚的なもの” であろうとも、いやむしろ感覚的であるがゆえに、作品の出来に対する可否は “絶対的なもの” として判断されるのです。
 逆を言えば、凡才・凡庸人であるということは作品を判定する基準が、絶対的ではなく相対的であると言えるでしょう。
 言い換えると、ある作品を見聞きして、その良し悪しが持ち前の感度ではわからず、「誰彼がこう言っていたから」とか「以前にこういう作品が評価されていたから」といった、既に流通している評価枠に則ることであったり、既製の権威に拠って立つことによって評定をおこなう。そのような価値基準は相対的です。
 作品の良し悪しをわかる感度が相対的だということは、作品を眺める別の尺度に気づいたときに迷いが生じることに繋がります。作品を通して表現しようとしたことに「別の表現態・別の完成形」があるのではないかと疑ってしまう。つまり、別の仕上がり方の如何に拘らず、これは完成したのだと断言できないのが感度が相対的であるということなのです。
 

才能があるから才能に悩む

ここでは映画『ギヴン』において描かれる「才能へのコンプレックス」に見ていきます。とくに梶秋彦と村田雨月との関係に目を向け、才能があることが喜びだけでなく、苦しみにも繋がることを検討します。

才能へのコンプレックス

 

 映画『ギヴン』で描かれていることに、「自分自身の才能に対するコンプレックス」があります。
 映画版でメインに照明されるのが中山春樹と梶秋彦で、その二人ともが才能へのコンプレックスに苦しんでいるのです。一方では天才ヴァイオリニストである村田雨月に対する梶秋彦のコンプレックス、そして given のバンドメンバーに対する中山春樹のコンプレックスという二つのラインで描かれている。
 とりわけ、ヴァイオリンを演奏する梶秋彦にとって、天才ヴァイオリニストとして名を馳せる村田雨月には残酷なものがあります。なぜなら秋彦にとって雨月の音楽は自分の限界を超えたところにあるから。そのことは秋彦にとっては感覚的な直感でこそあれど、感覚的であるがゆえに絶対的なものでもあります
 二人は元恋人で、依然として秋彦は雨月の家を訪ねるなどしている。この二人の関係の難しさは、どちらも好き合う同士でありながら、表現者として生きてもいる点にあります。すなわち、秋彦にとって雨月といることは絶えず自分が超えられない壁を突きつけられることになる。つまり、表現者としての限界を自覚させられてしまう。──その苦悩のために、二人は別れる。
 

才能ゆえのコンプレックス

 梶秋彦と村田雨月との関係には「表現者の世界の厳しさ」があります。というのも、「他人の才能がわかることもまた才能である」──このことがうかがえもするからです。
 村田雨月の才能はシンプルに周囲から卓越したものです。業界的・世間的の評価を受けると共に、その評価のために孤高の存在でもある。典型的な天才人物として描かれている。対して、梶秋彦のほうでは自分と雨月の才能とを比べて、雨月の才能が冠絶していることがわかってしまいもする。他人のすごさがわかる。──これもまた才能でしょう。この点を挙げて秋彦が凡人であることは確かなのですが、しかし、この才能のために自身の非才に対する屈託を覚えてしまいもするのです。
 おもしろいのは、秋彦が雨月の才能に衝撃を受けるときの感覚はほとんど覆しようのない “絶対的なもの” として感得されていることです。相対的なものであれば否定しようもあるでしょうが、否定することができない。なぜなら、絶対的だから。
 わたしたちは天才・才能人の特徴として「感度の絶対性」という説明をしました。そのことを踏まえれば、秋彦が雨月に対して感じた才能の隔たりが “わかることができた” ことは、一方では秋彦の非才を証明しつつも、他方では秋彦の才能も証明しているのです。つまり、 “他人の才能がわかることもまた才能である” わけです
 

表現者の世界の厳しさ

 梶秋彦と村田雨月とのコンプレックスまじりの関係についての話題は、そのまま表現者全般に当てはめられます。
 多くの表現者およびその作品が発表されるとなれば、うまい人/うまくない人、売れる人/売れない人、人気のある人/人気のない人といった比較が生まれます。なぜなら表現行為は作品の価値を評価し評価されることと表裏一体だからです。発表された作品を見る人がいるならば、そこに良し悪しの基準が持ち込まれもする。すると、作り手の側にとっても才能のある人/才能のない人の区別が生じるのを無視できなくなる
 才能のない側に立たされた表現者にとっては自身の非才を残念に思うはずです。さながら、梶秋彦の村田雨月に対する関係のように。その屈託に潰れてしまうか、それとも努力して打ち勝つか、もしくは独自の道を歩むのか。──こうした態度表明は映画版の展開のみに限らず、『ギヴン』のストーリー全体の行方に関わってくることでしょう。あるいは、『ギブン』に感情移入した視聴者にとっても。
 才能人は絶対的な感度でもって自分と作品との関係、そして自分と他人との関係を(文字通り)痛感することになる。そして、 “伝えたいテーマを的確に表現できているか” や “他の表現者たちおよびその作品群と差別化できているか” などといった表現者としての桎梏をみずから自分自身に課してしまう。──これこそ表現者の世界の厳しさなのです
 

サウンド 〜人を共鳴させるやり方

 映画『ギヴン』のコンセプトとして「表現活動における才能の意味」を挙げるなら、気に留めておきたいのが「人を共鳴させるやり方」というセリフです。これは曲のアドバイスを求められた村田雨月が、佐藤真冬に向けて言った言葉。真冬はバンドで演奏する曲作りをしており、雨月に “どうすればもっとよくなるのか” を訊ねたのでした。
 雨月が真冬に対して伝えたアドバイスは、わたしなりにまとめると「伝えたいことと表現したものとの差をなくしていくことだ」といったものです。より具体的には「きみがこの曲を通して人に伝えたいものはこれだろ? だったらここをこうしたほうがいい。そうすれば人を共鳴させることができる」──そのようなメッセージを伝えたのでした。
 また、映画終盤には、バンドの演奏を見守る雨月が梶秋彦と共に過ごした時間を思いながら「音楽だけは残ればいいのに」と独白する場面があります。とてもエモい場面です。ここで《音楽》という言葉を通して味わわれている感情は、映画『ギヴン』を鑑賞する人に向けて、言葉に表しがたい “微妙な感覚” を示唆しているように感じられます。
 以下では、「人を共鳴させるやり方」や「音楽だけは残ればいいのに」などの印象的なセリフの背後にある、言葉以前のエモい感覚の響きを「サウンド」という観念を用いて検討していきます。
 

サウンド:感覚と情動に訴える力

 サウンドとは何か。それはまず「音」のことで、感覚に行き渡る「響き」であり、あるいは何かを伝達する「声」でもある。とくに英語の sound に目を向けると、その意味の広がりがただ音を立てたり何かを聞いたりといった聴覚的なものだけに収まらないことがわかります。
 たとえば健康、妥当性、完全性などもまた sound の語によって言い表せるのです。わたしたちの関心から特に気がかりなのは give the impression(印象を与える/受けること)といった心理的・情動的なニュアンスも sound の語がカバーしている意味なのだ、という点です。
 思想史学者である田中純の文が理解の助けになるかもしれません。「生理的感覚と情動を喚起するサウンドは、象徴的な意味のコードと対立する、現実の直接的表出である。」つまり、サウンドはその文化的な意味を超えて、聞くもののうちに入り込み、情動を汲み上げてしまう力を持っているのです。
 サウンドとは水面に波紋が立つような、感覚的なさざめき・ざわめきの心象を物語る言葉なのです。文学的であるよりも音楽的であり、論理的であるよりも直感的であるような。そしてサウンドとは頭で考えるよりも身体で感じるものであり、理屈や意味にこだわるのでなく、フィーリングを重視し、そのフィーリングの只中に聞き手を呑みこんでしまう
 ──さしあたってここで「サウンド」と記してしまっているのはひとつの言葉に過ぎませんが、その言葉の成り立ちには「言葉よりも感覚を信頼する姿勢」があります。
 

人を音楽に駆り立てるサウンド

 サウンドという言葉の背景にある “言葉よりも感覚を信頼する姿勢” への理解を深めるために参考になる証言があります。
学校の先生とか親が言うことよりも、キース・リチャーズのチョーキングやリトル・リチャードのシャウトに本当のことがあるような気がするんだよね(ドブネズミの詩、33)
 パンクロック・バンドのザ・ブルーハーツが語った上の証言は、言うなれば「理屈じゃねーんだよ」という話でしょう。ザ・ブルーハーツもまたそうであるように、上で名前が挙がっているキース・リチャーズやリトル・リチャードのそれぞれが、ギタリストとボーカリストとしてサウンド・メイカーであることも頭に置いておきましょう。
 しばしば音楽的な感動は「有無を言わせずに襲いかかってくるモノ」として語られます。たとえばロックバンドの神聖かまってちゃんのフロントマンを務める の子 は「ロックンロールは鳴り止まない」の楽曲において、ロックとの致命的な出会いをおよびその感動を歌っていますが、それ──音楽的な感動は絶対的なものとしてあるわけです。そうした啓示的な瞬間に襲いかかってくるものは理屈で説得されたものではなくて、ある種の福音であるかのように、さながら一個の事件として特異なサウンドを聞いてしまったことによって発動してしまう。。。
 

共鳴を目的としたサウンド・メイキング

 絶対的というのは、言い換えが利かないということでもあります。その点、言葉による表現は同じことを伝えるのにも無数の言い換え可能性がつきまとう、相対的なものです。学校の先生や親からの説教がしばしば時と場合によって言い方が変わったり、あるいは真逆のことを言われたりするのも、言葉が相対的であるためです。それに対して、感覚に訴えかけてくるサウンドは有無を言わせずに “本当のこと” を聞き手に伝えてしまう
 サウンド・メイカーならびにサウンド・メイキングとは、有無を言わせなく聞き手に響いてしまうサウンドを制作することであり、そこで制作されるものはやはり「理解して納得する」のとは異なった「体験して感動する」類いの作品となるでしょう
 頭で理解する知的なロジックとは違った、身体で体験される感覚的なフィーリングが誰かに伝わることは、『ギヴン』で登場する言葉で言うところの《共鳴》に当たります。聞き手を共鳴させること──それこそが音楽家自身が伝えたいものを込めた、聞き手に対して効果的であることのできるサウンドを作る上での目的となります
 

「音楽だけは残ればいいのに」

 サウンドによって人が共鳴させられ、共鳴する。その感動体験は否定しようのない絶対的なものになる。そして音楽は楽器同士のサウンドが共鳴し合って響くハーモニーですから、音楽のあるところには “響き合っている状態” があります。村田雨月が「音楽だけは残ればいいのに」と言ったとき、そこには梶秋彦と過ごした時間の残響がうかがえることがわかります。
 雨月と秋彦のお互いが確かに繋がりあえていたときの実感は言葉にすることはできません。その幸福な時間はもはや過ぎてしまっていて、いわば感覚の記憶として今や別れてしまった状態にある現在に残響しているに過ぎないのですから。
 言葉にすれば嘘になってしまう、過ぎ去った幸福な時間および当時の感覚は、その時間的な隔たりをも含めて、一種のムード音楽として聞こえている。それが聞こえるときには聞こえてしまったものは否定しようもなく、絶対的に聞こえている。
 感覚を語る言葉は語ろうとした感覚に対してつねに遅れてしまう。このときの過ぎ去ってしまう感覚ないしは感情を表現することによって保存したものが《音楽》となる。さながら、人と人とが共鳴したことの記録として
 しかし現実は音楽であってさえも変わらずにはいられない…。人間同士がそうであるように、人の感情がそうであるように。──そんな含みを込めて、『ギヴン』は終幕を迎えるのでした。
 
言葉もまた音楽表現のように

 ここまで書いてきたところで言葉と音楽とを対比させました。言葉は意味のコードに則った相対的なものであり、音楽は生理的感覚と情動に訴求する絶対的なものであると。
 しかし言葉の芸術家がいることも確かです。
 彼らは詩や小説を書きますが、そこにもまた才能人の持つ感度の絶対性が存在します。そのような人物がおこなう文章表現には別の言い方がありえない表現仕方で言葉を使おうとする姿勢があるでしょう。それは音楽と同様に、言葉以前の、言外の感覚に訴えるものです。
 つまり、言葉もまた音楽表現のように人を共鳴させるための表現ができる。
 ──このときの言葉のあり方は音楽に似たものとして、いやむしろ音楽であるかのように語られることにもなります(たとえば詩人・萩原朔太郎など)。
 

まとめ

 この記事では映画『ギヴン』から「表現活動における才能の意味」のコンセプトを取り出しました。そこから派生して、才能にまつわるコンプレックス、共鳴や音楽を取っ掛かりとしてサウンドの観念なども取りあげています。そうこうして、言うなれば「表現者の世界の厳しさ」を改めて確認することになったのでした。才能人が生きる厳然たる表現世界。加えて男性キャラ同士の恋愛模様。──2020年の夏を飾った素晴らしい映画です。
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