【葬儀雑感】ウェットなケガレを乾かす般若心経|色即是空/湿即是乾

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2021年2月某日。ザムザ(@dragmagic123 )が葬儀に出席する機会がありました。「そこで得た気づきを皆さんにお届け〜」といった記事ではないです、残念ながら。この記事では仏式の葬式を目の前にしたことで触発された不如意な連想ゲームを少々、ある程度の分量に書き上げてみました。連想ゲームは「ハレ・ケ・ケガレ」に始まり、般若心経、それから仏教文化がしめっぽいムードを打ち消すようにドライな心持ちを指向することへと話は動きます。東西の風土に由来する起源神話から目的意識に関しても「ウェット/ドライ」の概念でデッサンしてみたり。

【葬儀雑感】ウェットなケガレを乾かす般若心経|色即是空/湿即是乾

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ケガレてるからハレがいり、立ち返るべきケのあったことに気づく

葬式があると、民俗学者・桜井徳太郎のことを思い出してしまう。日常/非日常、生活/祭礼などを「ケ/ハレ」の二項図式で把握する柳田國男以来の概念に、「ケガレ」の視点を挿入することでアップデートしたのが彼だったはずだ。人が生活するうえで大切なケというエネルギー源があり、それが枯れてしまった状態がケガレで、ハレはケを回復するために執り行うものである
民俗学では、葬式がハレなのかケなのかを決めかねる流れがあった。これはハレをポジティブなものとして、ケをネガティブなものだとイメージするとわかりいいだろう。葬式は明らかにポジティブではない。むしろ悲しまねばならず、しめやかに進行されねばならないのだから、ネガティブなものだという判断は自然なものだ。
しかし桜井徳太郎のアイデアからすれば、死者が出たことは、遺族親族にとって、普段の生活を送るためのエネルギーがネガティブな出来事によって減少し、なんなら尽きかけてしまっている状態にある。これがケガレだ。葬式がハレであるという信憑性はここに湧く。故人を弔い、ケの枯れた状態からの回復を指向する。葬式はハレ
葬式があるたびに思い出すのはこういったことだ。葬式のたびに、自分がケガレていること、ハレとしての葬祭儀礼が必要なこと、立ち返るべきケのあったことを思い出させられるのだ。
 

ドライヤーとしての般若心経「色即是空 空即是色」

葬式が仏式だと、さらに考えてしまうことが、ある。いやむしろ揺すられてしまうと言ったほうがいいかな。式の最中に坊さんが般若心経を唱える。すると「色即是空 空即是色」が耳に入ってくる。仏教の奥義と言っていい呪文(マントラ)だ。乳幼児であれば、揺さぶられ症候群にでもなりそうなほどの震動が与えられる。……これは余計な言い分か。
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
(舎利子(シャーリプトラ)よ。形あるものは空であり、空であるからこそ形をつくっている。形ある存在とは実体がないのであって、実体がないからこそ形ある存在となる。感じたり、思ったり、意志を持ったり、知ったりする心の働きも、実体がないのだ。)
(立松和平『日本最古 隅寺版 紺地金泥般若心経』より)
目に見えるものも見えないもの(=色)も、みな等しく虚しいもの(=空)である。すべて虚しいからこそ目に見えるものや見えないものが生じるのだ。華やかな祭壇を前にし、着席し、しめやかにしているとき、「色即是空 空即是色」の文言は、華やかな祭壇もしめやかな雰囲気も、それらすべてを滅却でもしそうな魔法を発動する。というのも、その呪文が目的としていることのひとつは、穏やかであるといえど人間界の滅却が組み込まれているからだ。
故人が火葬されて骨っきりになってしまったとき、「色即是空 空即是色」の響きはより痛烈に谺する。遺族の代表者が故人のお骨が入った箱を抱える、そのそばには故人の生前の写真の入った額を抱えているのだから。骨壺と肖像。骨壺が「色→空」の運動を示しているなら、肖像はそれに抗する「空→色」の向きだ
形あるものはみな形を失うことになる。それを象徴するのが骨壺。肖像が語るのは、これが生きていたときの姿がこれになります式の、生前の姿であるわけだけれど、同時に、にもかかわらず、私たちはこっちの姿を諦めることができないでいます、そうした執着を物語っているかのような情趣が、骨壺と肖像を抱えた遺族の光景にはある。
「色即是空 空即是色」の呪文がもたらす魔法は、骨壺と肖像を抱えた遺族たちの姿に対して、一種の乾燥機(ドライヤー)のごとき作用をもたらす。つまり、「仕方ないんだから、観念しなさい」だ。
 

東洋と西洋。あるいは〈しめやかさ〉と〈おごそかさ〉

ドライ……乾燥……。「色即是空 空即是色」の聖語が仏教の本義を示していると考えると、これが半ばステレオタイプのように流通している「東洋」のイメージと重ね合わせられるのではないかしら。ここで東洋という言葉で喚起しようとしているのは、乾燥地帯ではなく湿気があること、行者のようなどこか俗世間に対して虚無的な距離感を持つ宗教者の姿、それから葬儀の際の「しめやかさ」
東洋に対して、西洋のことを思い浮かべてみたい。戯画的なものではあるが、先に並べた東洋的なるものと対立し、次のようになる。西洋という言葉で喚起されるのは、熱帯・湿地帯ではなく荒涼とした岩石・砂漠の風景、世間に対して積極的に関与しようとする神父・牧師などの宗教者の姿勢、そして葬儀の際の「おごそかさ
言葉から受け取る印象として、〈しめやかさ〉には潤いや湿気があるものの、〈おごそかさ〉には喉の渇きを覚えさせる気配がある。前者には涙声を張り上げる泣き女や故人を悼む人の喪服姿と直線している。後者には崇高なものの前でかしこまる姿──たとえばケルン大聖堂の虚空に屹立した尖塔であったり、ナイアガラの大瀑布の眺望に圧倒されたりといった、ひゅっとキンタマが縮み上がるほどの緊張を強いられる人体が連想される。
 

風土によって決まる起源と目的:ウェット or ドライ?

東洋的なものを仏教でイメージするなら、西洋的なものはユダヤ-キリスト教で語って構わないだろう。さらに東洋がドライ指向にあると仮定するなら、西洋はウェット指向にあるというべきか。
話を葬儀に限るとして、東洋のドライ指向に関しては、仏教が死んだものは還らない、諸行無常と説く際の態度がドライであることに由来する。遺体を燃やすことが諦めさせるための手続きだと思ってもいい。
それに対して、西洋のウェット指向については、ユダヤ-キリスト教ではまず燃やさないし、来る審判の日のために、神への感謝や謝罪などをおこない、賛美歌も歌ったりなどし、しっとりとしている
二つの文化の違いは発生した風土の影響が大きいのかもしれない。ユダヤ-キリスト教のメインの経典である『聖書』の世界は乾燥した砂漠地帯であり、緑豊かな風土ではない。人間は土塊から出来ている。対して、仏教が広まったアジア圏で描かれる神話では水気がある。中国では龍が水棲生物だし、盤古なる神は水に由来するものを産み出してこの世をなした。日本では『古事記』がスープをかき混ぜるようにして列島を形作ったし、人間はウマシアシカビヒコヂと言って、水草から出来ているわけだし。
以上が、東西の起源の姿として思い描こうとしているもの。起源からすれば、東西のイメージは東洋的なものがウェットであり、西洋的なものはドライになるわけだ。
ところが起源に対して目的もある。生まれがあれば死もあるように。生まれたものミッションを持つことになる。下等な生物であれば生きることと増えることがそれだし、高等な生物であれば文化を形成し、社会的な何者かになろうと努めるだろう。人間社会で「夢を持て」と言われているのがそれ。
人間にとって、生まれた状態から寿命が尽きるまでの間の「努力のプロセス」は、起源の状態から何らかの目的の達成に向けて進行する。力のない状態から力のある状態への移行であり、はたまた地方から都心部への移動であり、北から南へ、不幸から幸福へ、……などなど、様々な有り様をとる。これが東洋でのウェットからドライへ、西洋でのドライからウェットへの指向性と重ねられそうではあ〜りませんでしょうか。
 

ドライヤーとしての般若心経「湿即是乾 乾即是湿」

再び葬儀の場面に戻ると、葬儀とは生まれいずるものが行き着くところ、その逢着地である死だ、ということが念頭に浮かぶ。言うなれば〈起源〉に対する〈目的〉である。起源からすると「東洋:西洋=ウェット:ドライ」となるが、目的から照明すれば逆転し、「東洋:西洋=ドライ:ウェット」となる
仏式では「色即是空 空即是色」を念誦せられる。これは「しめっぽいのはこの儀式で終わり、仕方ない、万物流転生々滅々、不生不滅不増不減、観念してください」といった意味があるだろう。ウェットからドライへ。それをもじるなら、先の魔法の言葉はこう表現してもいいはずだ。「湿即是乾 乾即是湿」。
骨壺と肖像を抱えた遺族たちの姿。あの姿。肖像が語るのは、これが生きていたときの姿がこれ、生前の姿であるわけです──それと同時に、にもかかわらず、私たちはこっちの姿を諦めることができないでいます──そうした執着をも物語っている──骨壺と肖像を抱えた遺族の光景には、そのような趣きが、ある。
「湿即是乾 乾即是湿」。それは東洋の、日本の、起源神話から水脈を引くウェットな風土のなかで、乾いた心情、いやむしろ枯淡の境地とでも言いたくなるところへの指向性を踏まえた、ドライな心境なのだ。……その心境になることを焚きつける般若心経ってやっぱりドライヤーじゃね?
(そうはいってもこのアイデアは「色即是空 空即是色」の矮小化であることも否めない。乾湿の言葉は空の概念と重ならず、むしろ色の概念相に類属するからだ。だから、ここで述べたことは般若心経の哲学というよりも、仏式による葬儀の印象を記述するためのアイデアである。)
 

おわりに

この記事は葬儀の席に着座したザムザが行った連想ゲームの一部始終である。印象録にも似ているだろう。それでも、始まってしまったものは終わらせてみたくなるのが人情ではないかしら。……こう言い訳した後で、少し記事全体をさらっておくと、冒頭の民俗学についての記述はいいとして、この記事はアニメ『ドラゴンボールZ』から『ドラゴンボール超』への主人公・孫悟空の変身姿の変遷をダシにして、後半の「湿即是乾 乾即是湿」の話を書こうとしていたのだ。それをやったらどうなったのかは今となってみるとわからない。孫悟空のヘアスタイルがウェットからドライになることを構想していたようだけれど。
_了

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