デュラスの「完璧に近い孤独」と「書くことの病い」:『エクリール』

文学
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 表紙を見て買ってしまうジャケ買いというものがありますが、今回わたしはタイトルに惹かれて一冊の本を手に取りました。とはいえ舞台は図書館のOPACだったのですが。。。

 わたしはいったいなんと検索したものやら。。。たぶん「書くこと」とかだっだような気がします(覚束ない記憶)。

 そんなこんなで「書くことの彼方へ」という副題を持つ本を見つけたのです。収蔵庫の資料で、司書さんに頼んで取り寄せ、手に取ってペラペラとめくってみます。借りることにしました。

 ちなみに司書さんから現物を渡されるまで、わたしはなぜかデュラスをダリと脳内変換していました。ダリのくにゃりと曲がった時計のことを思い浮かべていたところ、その実、小説家デュラスだった、というわけです。

 副題にある通り、いくつかの文章が収められたその本は〝書くこと〟についての本でした。

 そういうわけで、今回取り上げてみるのはフランスの作家、マルグリット・デュラスの『エクリール』という本になります。

この記事で取りあげている本

マルグリット・デュラス『エクリール』田中倫郎訳,河出書房新社,1994

この記事に書いてあること
  • 書くことは孤独のなかでなされなければならない。さもなければ、自分の書いたものから血の気がなくなり、書いたものの作者に見覚えがなくなってしまう。
  • デュラスの「エクリール(書くこと)観」は「何かが書かれようとしている」状態へと自分を追いやることであり、そこには自己発見がある。
  • 人は自分の内部に「書く狂気」があるから狂気に陥るのではなく、狂気に陥るからこそ「書く狂気」が生まれる。

 

デュラスの「完璧に近い孤独」と「書くことの病い」:『エクリール』

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書くことの彼方を目指す作家マルグリット・デュラス

 まずはマルグリット・デュラスのことに触れましょう。彼女は小説家で脚本家、それに映画監督です。1915年にベトナムで生まれ、40年代に作家活動、66年には映画製作をし、87年には小説『愛人』が世界中でベストセラーになっています。

 デュラスの個人的な出来事に焦点を当ててみますと――。32年に大学で法律と数学を専攻し、42年に子供を出産するも死別。44年にはナチスの強制収容所に送られます。同年、共産党に入党。

 本書『エクリール』はデュラスが「書く(=écrire,エクリール)」行為について書いたもの5篇が収録された本です。訳者の表現を借りれば「とりあげた主題のむこう側」への問いかけに満ちた文集なのです。つまり「書くことの彼方へ」と向かう5篇のテキストが。

 

『エクリール』の「エクリール」を読む

 ここでは『エクリール』の表題作である「エクリール」のエッセイを取り上げます。

 フランス語で「書く」を意味するエクリールという題を冠したエッセイは、デュラスの作家としてのコアとなるような思想がみなぎる熱い文章になっています。

書くことの孤独

 デュラスは書くことの孤独を語ります。書くこと。それなくしては「書きもの=文」は生まれません。または「なにを書こうかと探しあぐねて血の気を失い、こなごなになってしまう」と、彼女は書きます。血の気がなくなれば、その文の作者には見覚えがなくなってしまうのだ、とも。

 孤独はひとりでに作られてゆくものですが、同時に孤独を作ったのは「私」でもあります。書く人であるデュラスにとって、孤独は悪ではありません。孤独は見つける必要があるものであり、それはむしろ自ら作り出してゆくものです。

「私がひとりにならなきゃならないのはここであり、本を書くためひとりになるのだと決めたからよ。」(p15)

 文を書き、本を書く。それは孤独な営みです。しかし書くことの只中で孤独になることは容易ではありません。絶えず囁きかけてくる他者のような言葉と向き合わいながら書くという行為に耽らねばならないからです。

 

「何かが書かれようとしている」状態に自分を追いやる

 ふつう、書くことは「何かを書こうとしている」状態です。伝えたいことが頭のなかにあって、それを書き出す。しかしデュラスの「エクリール(書くこと)観」はそうではありません。

 デュラスが書くとき、その手前には出来上がるとは限らない本が横たわっています。つまりは「」。それは暗い深淵を覗かせる穴であって、デュラスはその中に、その奥へと降りていき、「完璧に近い孤独の中」で書くことだけが自分の救いなのだという気づきを得られるのです。

 書くことだけが救いなのだという気づきはひとつの自己発見です。無の中に身を置くことによって得られる自己再発見です。気づきを得られたならば、あとは没頭するのみ。本のことなど考えもせず、来るべき未来さえもない「本=ひとつの出来事」への没頭があるだけなのです。

 まとめます。デュラスのエクリール観とは「何かが書かれようとしている」状態へと自分を追いやることなのです。そして書く行為によって文や本を暗い孤独のなかから明るみに出すことは、さながら自分自身を発見することにも似ているのです。

 

行為に没頭することで生成される分身としての本

 デュラスは本が目の前にあり、書き終えてくれと要求しているあいだは、書くことを止めてはいけないのだと述べます。書き終えた本は書いた者から自立していく。しかし本が出来上がる途中で投げ出してしまうことは「犯罪同様の耐えがたいこと」なのだと言います。

 明らかにデュラスにとって、本は倫理の庇護下に置かれるような何者かなのです。あたかも妊婦が胎児に対して負う責任のように。

「私は、「原稿を破ってなにもかも投げ出した」なんて言う人を信じない。そんなの信じられない。書いたものが、ほかの人たちにとって存在していなかったか、書いたものが本じゃなかったのかどちらかよ。」(p25-26)

 仮にデュラスにとっての「本」を「子ども」としてイメージしてみましょう。本を書くことを子どもを作る行為になぞらえれば、性交とは子どもの存在を度外視した愛する行為そのものへの没頭です。このことはデュラスが書いている最中に、本のことなど考えるべくもないと考えていることにも通じます。

 たとえ子どもではないにせよ、デュラスにとっての「本」が己れの分身に近い位置づけだったことは確かでしょう。さながら愛する行為にも似た、「行為への没頭」によって生成されたものとして。結果として、それが本になるのです。

 

狂気に陥るからこそ人は書くことの病いに罹る

 デュラスはまた、書くことの病いについて書いています。彼女いわく、書くということは、考察ではなく、これから何を書こうとしているのかもわからないことです。

「内在的な書く狂気というのが存在し、それはすさまじい狂気だけど、人が狂気におちいるのはそのためではない。その逆なのよ。」(p72)

 自分の内部に「書く狂気」がある。けれども人が狂気に陥るのは書く狂気のせいではない。そうではなくて、狂気に陥るからこそ人は書くことへの狂気が生まれるのだ。つまり、書くことの病いに罹る。デュラスはそう考えるのです。

「書くというのは、書いてみたとしたら何を書くかを知ろうとする試みで――それは書いたあとでなければならない――書く前は、自分に課すことのできる一番危険な質問なのよ。でもそれが一番ありふれた質問にもなっているけど。」(p73)

 自分は何を書こうとしているのか? ――それはデュラスにとって一番危険な質問であり、一番ありふれた質問でもあります。その質問の答えを知っているとすれば、書く必要がまったくないことを証明してしまうのですから。言い換えれば、ひとりになれず、孤独を知らず、そして自分が誰でもなくなることなのです。

 

まとめ:完璧に近い孤独の中で、あるいは書くことの彼方へ

 デュラスは病いを必要としました。それは「書くこと(エクリール)の病い」でした。そのために孤独を作る必要があり、その孤独のなかで書く必要があったのです。書いた文、そしてそれが連なって本になる……。

 しかし書いている最中には本のことは頭にない。まるで他者を愛するように書く行為へ没頭した結果、本が生成される。そうして出来上がった本は、さながら血の気の通った自分の分身です。

 デュラス自身が言うように、それはどこかへと通じています。

「私がここで言おうとしてるのは単純なことじゃない。だけど、あらゆる国の仲間が、そこで落ち合えるのだと私は思ってるの。」(p72)

 デュラスがほのめかす「そこ」に、本書の副題である「書くことの彼方へ」を重ねることができるでしょう。ただし、そこが何なのかを知るためには、彼女同様に「完璧に近い孤独の中」で書くことの病いに罹る必要があるのでしょうけれど。

 

_了

関連資料

マルグリット・デュラス『エクリール』田中倫郎訳,河出書房新社,1994

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