【豆塚エリ/小説】「何もできないこと」も評価すべき能力ならば

小説
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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。昨今、障害者だけでなく健常者にしても「役に立つのか」「何ができるのか」で人を評価する視点が溢れかえっていますね。とはいえ「何もできないこと」にもそれなりの経過があるもので、一概に人格否定をする理由にはできない…という観点を、豆塚エリの『いつだって溺れるのは』を通して見つけてみようとするのがこの記事でございます。
この記事で取りあげている本
 

【豆塚エリ/小説】「何もできないこと」も評価すべき能力ならば

豆塚エリ『いつだって溺れるのは』

この記事では豆塚エリの小説『いつだって溺れるのは』を取りあげます。小説の内容に関しては別の記事に書いた、以下の一節を引用することで説明とさせていただきます。

話は頸椎損傷した著者の経験を材料にしたもので、彼女自身を知っている人からすれば、豆塚エリという人格が色濃く反映したものとして読める類いの作品。さながら、太宰治の小説が彼の生きた人生から眺められるものであったように。──これが太宰治賞の条件になっているのかは分かりませんが、連想することはできるかもしれませんね。
小説の内容は、障害者ではなく一個の私である女性の自立を描いたもの、と言い表せます。
頸椎損傷して障害者となった葉子が、介護職の男・修司と結婚して同棲している。葉子は障害者年金でマンションの家賃を出しているものの、修司の世話になっていることに負い目を感じている。しかし「めんどうくさがり」な葉子と「ぶっきらぼう」な修司の生活は、葉子の我慢によって成り立っていた。そんななか、通っている病院の待合室で高村という五十代くらいの男と出会い、浮気。高村を愛するなかで急速に夫との生活が “ムリ” だと気づいていき、葉子はめんどうくさいこと=修司と向き合う決断をする。
この記事では、豆塚エリの小説をかざしながら、「個人をひととして見る」ことに含まれる欺瞞を取りあげます。
 

可能性のひとつの私、潜在性があらわれた私

ここでは豆塚エリの小説『いつだって溺れるのは』を読みつつ、「修司にとって私は、私ではなく、障害者なのだ。」という一節から、〈私は障害者である〉と〈私が私である〉のとを分別し、何もできないことさえも一つの能力だという視点を取りあげます。

私とは私個人に潜在していたものが実現した姿である

修司を諦めるときに、葉子は次のことを思います。「修司にとって私は、私ではなく、障害者なのだ。」(p325) ──ここでは、修司から「役に立つかどうか」でもって目を向けられていた葉子の苦悩がうかがえます。
人間は世間的な〈ひと〉として見られる以前に、〈私〉でもある。この〈私〉こそがもっとも目を掛けられてしかるべきなのに、修司は「障害者でも健常者と同じように生きるべきだ」という信念を押しつけてきて、気遣いどころじゃないんですね。
肝心な点は、葉子の「修司にとって私は、私ではなく、障害者なのだ」というモノローグが〈私は障害者である〉のと、〈私が私である〉のとを分けて考えているところ。前者は「ひとの可能なあり方のひとつ=実在」であり、後者は「私に潜在していたものが実現したもの=現実」を示唆しています。
例をあげましょう。「ひとは何にでもなれる」という言葉がありますね。しかし実際のところでは、〈ひと〉は何にでもなれるかもしれないものの、何かになってしまうことで他の何かにはなれないものです。けれども、人間の可能性の話としては “何にでもなれる” という考え方は正しい。
ただし、これは〈ひと〉すなわち人間一般のことであって、必ずしも個人に当てはまりません。何にでもなれるかもしれない人間であるとはいえ、それぞれが個々に生まれ持ったハンディキャップを負っていたり、環境が許さないといった事情だってあるでしょう。ここには人間一般の可能性が縮減されることによって実現された個別の現実があります。こうした個人が直面する現実は、個人に潜在していた才能の開花という形で実現するものなので、「ひとは何にでもなれる」の言い方は通用せず、「私は何にでもはなれない」という言い方が是となります。なぜって、人間一般には無限の可能性があるかもしれませんが、私個人には有限の可能性だけがあるのですから
以上の観点を踏まえると、〈私は障害者である〉は「私は人間一般が有する可能性のうちのひとつである障害者の実在した姿である」と書き換えられるでしょうし、〈私が私である〉のほうは「私が私個人に潜在していたものの実現した姿である」と書き換えられます。
 

何もできないことを評価する/〈私〉の潜在性の表出

ここまで見てきた「人間一般/私個人」や「ひと/私」の区別を踏まえた上で、次の葉子のモノローグを読むと独特の味わいがあります。
どうしてだろう。障害者であることが、何もできないことが、そんなに悪いことなんだろうか? 誰だってなり得る、明日事故でそうなるかもしれない、それはただの運でしかないし、歳を取って体が動かなくなるのは時間の問題でしかないのに。
(『いつだって溺れるのは』,p326:太字は引用者)
誰だって障害者になる可能性はある。今は健常者であっても、何もできなくなってしまうこともある。そして誰だって老いていくのだから、結局、みんな何もできなくなる。それなのに、障害者が何もできないでいることを悪いことであるかのようにみなす。
ここから読みとってみたいのは〈その人が障害者である〉ことと〈その人がその人である〉ことの違いです。
障害者であること、そしてそのことで差別を受けることは、個人の可能性である前に「人間であることそのもの」に潜在する可能性です。そうであるかどうかは、「ただの運」によって左右されることでしかないにもかかわらず、あるいは運どころではなく「歳を取って体が動かなくなる」のは人間一般に宿命されたことであるにもかかわらず、それが実現された個人を「役に立つかどうか」などの価値観で迫害するのは「誰だって障害者になり得る可能性」が見えていないばかりか、「自分自身もいずれそうなる運命」にあること自体を否定している。なおかつ〈その人が障害者である〉ことにしか目を向けないのは、〈その人がその人である〉ことに失礼です。言うなればカタログを広げて他人を判断しているようなもの、自分の姿さえ、カタログに見つけなければ安心できないようなものでしょう
小説が描くのは「私が私だからそうしたこと」です。決して、カタログに掲載されたみたいな「誰だってそうした」ことを納得させる広告的な人間の姿ではありません。同じように、人生だってそう。たとえ「人間というものはこういう時にそうするものだ」という共通了解(コンセンサス)があったとしても、じっさいに自分がコトの当事者になったなら、「誰だってそうしただろうから」という理由で振る舞うのではなく、むしろ「私が私だからそうしたのだ」という理由だけが浮き立つことになります。事態としては、「可能性の選択」ではなくて、「潜在性の表出」といった方が合っているでしょう。
何かができるのだって本来そうなのですが、人が何かする能力があることの評価ポイントは、その能力が役に立つという結果ではなくて、能力を身につけるに至ったその人物の関心であったり忍耐であったりといった過程=時間に対してです。これは逆に「何もできないこと」に対しても言えます。とくに元はできていたことが後からできなくなった場合には。どうやら、葉子は(作者である豆塚エリと同様に)後から “何もできなくなった” ようですので、そこには〈その人がその人である〉という「潜在性の表出」がうかがえます。
「何かができる」のと同様に「何もできない」ことを悪様には言えない理由がここにはあります。あるいは「能力を評価する」ということの真の意味と言ってもいいでしょう。つまり、相手がどんな能力を実現させているのかを確認するために、何もできないことさえも、ひとつの潜在能力の現れだと理解する、という意味において。
 

まとめ

人は「あなたは何ができますか?」という質問をされがちです。誰かに言われなくても “言われた気になって” しまったりして。障害がある人も例外ではなく、むしろ健常者よりも強く意識しやすいでしょう。とはいえ、人は「何かができる/できない」だけで評価されるわけではありません。何かができても、できなくても、「その人がその人である」という事実があります。それこそ欺瞞や詭弁に近い考えかたかもしれませんが、小説たとえば豆塚エリの『いつだって溺れるのは』がそうした観点を納得させてくれるヒントになっていたりもするのです。よろしければ小説の方も読んでみてください。
_了

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