【吉村萬壱・出来事】エロティックな師弟関係が本物だ|+ハイデガー

小説
Pocket

みなさん恋をしていますかしら? それはどんな恋ですかしら? 相手から何かしら教わっているんじゃないですかしら? ──吉村萬壱による小説『出来事』におもしろい一節があるんです。それってのは女にはそれぞれ文化があって、恋愛のような関係を持つと大なり小なり、相手からその文化を吸収することになる、と。しかもこれが「教養」と呼ばれてるんですよね〜。さらにさらに本物の師弟関係は恋愛感情がないとダメなんだ!とさえ…。こっから先はザムザ(@dragmagic123 )による以下の紹介をご覧くださいませ(笑)
この記事で取りあげている本
 
 

【吉村萬壱・出来事】エロティックな師弟関係が本物だ|+ハイデガー

スポンサーリンク

『出来事』について

ここでは吉村萬壱の小説『出来事』について語りつつ、そのハイデガーっぽさを取りあげております。

哲学小説・存在論小説

小説家・吉村萬壱の小説作品に『出来事』がありますのや。どんな小説かって言うとこれがまたヤッカイでケッタイなものなんだけど、一言で表すなら「存在論小説」、かな。
…なんていうイメージの付きにくい説明をしちゃうのも、物語がどうなってのかっていうのが説明しづらいからで、出版元の鳥影社のHP上の紹介文にしても、次のような文章で紹介されてるんですわ。
きれいごとを吹き飛ばす圧倒的描写力によって日常世界がめくれあがる。見慣れたはずの外界が何かおかしい。人間の嘘がべろりと浮かび上がる。人間とは何ものか。一見そうは思えないが本書は脳と文明の虚妄(でっちあげ)をあばく恐るべき哲学小説である。
作家の描写力で世界がおかしいってことが明らかになり、人間の嘘が暴かれる、そんな「哲学小説」。…え、どんなストーリーですのん?
話を戻して、先ほど「存在論小説」と言ったのは、作中に哲学者マルティン・ハイデガーの『存在と時間』って哲学書が登場するってのに掛かってるんですわ。その本は難解なことで有名なんですが、読んでみるとどうやらハイデガーが書いたことが『出来事』という小説の主題に関わってるってのがわかるんですな。
 

ハイデガーと「出来事」

 

ハイデガーは「存在しているというのはどういった事態なのか?」ってことを考えたんですわ。んで、この疑問を考える学問が「存在論」と呼ばれるわけです。この疑問に答えるには二つの道があって、それは「事実で答える解法」と「意味で答える解法」、言い換えると、理系みたいに考えるか、文系みたいに考えるかって話ですな。ハイデガーは後者の意味で答える道を選んだんですが…それはまぁ置いといて。。。
そもそも論でハイデガーにとっては何かが存在していることそれ自体が「出来事」だったんです。出来事ってのは大げさに言うと「それまで経験したことのない、新しい何かが起こるという事態」(向井雅明,175)のことです。存在しているってことが不思議でしょうがなかったハイデガーにとっては「存在する」ってのはそれくらいのインパクトがあったんでしょうね。
んで、吉村萬壱の『出来事』がどうハイデガーっぽくて存在論っぽいかと言うと、小説として描かれているなかで絶えずリフレインする問いが「ホンモノか、ニセモノか?」ってのがありまして、これがまた「世人」とか「頽落」なんていう言葉で「本質的自己・本来的実存を生きるのだ!」と語ったりするハイデガーと重なるんですわ。
 

ハイデガーっぽさ・存在論っぽさ

今でいうあれですよ、あれ。「あなたは本当にやりたいことをやれてるの?」なんつって甘い夢を見せては時間と労力を搾取しようとする「ドリーム・ハラスメント」みたいな。……いや待てよ、これはハイデガーにも『存在と時間』に失礼か。。。
『出来事』は小説家が主人公になってるってのもあって、〈書くこと〉に関するあれこれが書かれているのですが、ここまで見てきたハイデガーっぽさ・存在論っぽさが次の箇所から読み取れるのではないかしらん。
何もかもがでっち上げの偽物に過ぎないこの世界を正確に記録していく事が私に課せられた使命であり、元の世界に戻るための唯一の手段であるなどと、何を根拠に信じていられたのか思い出せない。日々文字で埋まっていくこのノートを一体誰に見せるべきなのか、それすらもう分からない。書く事は既に気晴らしですらない。白い紙に文字を書き付ける事でこの紙のような平板な世界に対抗するなどと、一体どの頭が考えたのだろうか。(『出来事』,p246-)
とまあ、ご覧の通り(?)哲学小説やら存在論小説やらと言われてもおかしくなさそうな小説なわけですわ。
 

本物の師弟関係には恋愛的感情が不可欠

ここでは『出来事』にある「女=教養」や「本物の師弟関係」というアイデアを取りあげます。

女とは文化で、教養だ

この記事で『出来事』っていう小説を取りあげようと思ったのは次の一節が目についたからなんですわ。
或る時、女遊びの達人の同僚に「女とは何か?」と訊いた事がある。すると「教養だ」という答えが返ってきた。その時はピンとこなかったが、今では何となく分かる。どんな女でもその女なりの文化を持っているのだ。女と昵懇になると、肉体と共に、貴賎に拘らずその女の持つ文化までも受け取る事になる。谷川麻美の場合は哲学と文学だった。和夫はその方面に暗かったが、まるで息をするように自然に影響を受けた。
(『出来事』,p131-)
女とは何か?──そう女遊びの達人に訊ねる和夫っていう男のほうもまぁ、それなりに女遊びに耽っている男なのであるんですが、それはいいとして、ここで「女とは教養だ」と答えているってくだりが大変興味深いんですわ。
理屈としては女の人と仲良くなると、その女性が持っている文化を知ることになるので、付き合っているうちに自然とその文化に親しむようになるんだとか。だからこそ、女は教養である、とのこと。
ここで言われている文化というのはたとえば聴いている音楽なり読んでいる本なり、好きな映画なり、さらには考え方や感じ方、それに生き方だって当てはまるでしょうね。
そして『出来事』で和夫が現在付き合っているお相手(ちゅーても不倫相手な)というのが谷川麻美で、彼女は哲学と文学が好きで、それからハイデガーの『存在と時間』の愛読者。ほんで和夫も小難しい哲学書を読むようになっているって話っすわ。
 

教養は恋愛感情を介して

「女=教養」に触れている和夫はおのずと『存在と時間』を読むようになっている、という場面として、先ほどの文章に続く箇所が以下のくだり。
『存在と時間』を開くと、初めて一緒にこの本を眺めた時の彼女の匂いや声、皮下脂肪の柔らかさなどが決まって甦ってくる。そして気が付くと、彼女と同じ指使いで紙を撫で回している自分がいる。読んでいると、本の内容とは関係なく体の中に彼女の存在そのものが染み渡ってくる感じがするのである。これこそ「酔う」という事かも知れなかった。そして「教養」とは本来、同性異性を問わずこのような恋愛的感情のようなものを介してしか伝わらないものかも知れない、と思った。
(『出来事』,p131-132:太字は引用者)
教養は恋愛的感情のようなものを介してしか伝わらない──これを読んだとき「おもしろい!」と思うと共に「たしかに!」と思う人もいるんじゃないですかしら。たとえば「好きな人が聴いていたから自分も聴くようになった音楽がある」とかってのは多くの人が経験しているんじゃないかと思うんですが、どうでしょう?
なにも大学では何を専攻したのかやどんな音楽や映画が好きだとかってことに限らず、恋愛相手にも過去があって、生まれてから育ってきたなかで様々な経験をしてきて、色々な人と出会っては別れてきて、そのなかで学んできたこととか身につけてきたこととかってのがあるわけですよ。そういうのをひっくるめて「文化」だと考えると、その人に対して恋愛感情のようなものを持って接するってことは、相手の文化にも触れないではいられないはず
また、「本の内容とは関係なく体の中に彼女の存在そのものが染み渡ってくる感じ」にしても、誰かと恋愛のような関係になったときに感じる、 “相手の成分を摂取している感じ” とでもいいましょうか、ありませんかね、そーいうのって?
 

本物の師弟関係とは何か

それからそれから、不倫男・和夫の「女=教養」考察は次のような結論をとります。
ハイデガーそのものではなく、彼女の存在を通過した谷川麻美的ハイデガーが入ってくるのだ。彼女はこの意味で彼の師であり、彼は彼女の弟子だった。本物の師弟関係によって受け渡されるものは、決して中性的な知識や技術ではなく、恐らく師の体温によって温められ、師の体臭を帯びた生理的とも言える生きた果物のような或る物なのだろう
(『出来事』,p131-132:太字は引用者)
このあたりもひじょーにオモチロイ。
単なるハイデガーではなくて「谷川麻美的ハイデガー」。これは言葉遊びではないってことはここまでの「女=教養」の話題からも確かです。ちょっと冗談みたいですけれど、情を交わした相手が自分の中に入り込んできてしまうってことはあって、たとえば同じ音楽を聴くときには恋愛相手の耳を通して聴いてしまっていたり、同じ小説を読むにしても通じ合っている相手の目を通して読んでしまっていたりなんてことがある。ありますよね、どーですか?
それに「本物の師弟関係」なんてことにまで話の矛先が向いていますね。オモチロイ。でも、なんすか、それ? 師弟関係の間にある教えの授受の話題をしているところで、その関係のなかで伝達されるのは「中性的な知識や技術」ではないと語っているんですわ。中性的っちゅーのは恋愛的感情に基づかないもののことでしょうかね、だから強いて対義語をでっちあげれば「異性的」とでもなるんじゃないかしら。
この本物の師弟関係で肝心なのは「師の体温によって温められ、師の体臭を帯びた生理的とも言える生きた果物のような或る物」なわけです。ご存知のように恋愛感情というものは相手の生理的分泌物を求めたくなるような気持ちなんで、恋愛相手の文化を形づくる作品──たとえば『存在と時間』がそういった気持ちの触媒になったとしても、おかしくない
なんだったら、浮気男・和夫が『存在と時間』を読んで「谷川麻美的ハイデガー」を感じているのは、彼にとってそれがハイデガーの作品であるより前に浮気相手・谷川麻美の肉体だからなのかもしれないんですな。なんともまぁ、エロティックなこっちゃで、本物の師弟関係ってやつは。
 

『存在と時間』を書き換える

はてさて、和夫が谷川麻美が好きなハイデガーの『存在と時間』を読んで「谷川麻美的ハイデガー」を感じながら “お勉強” をしている。そのときに彼が「それまで殆ど頭に入ってこなかった言葉が、この一文を読んだ時、不意に理解出来た気がした」と思った一節として、実際にハイデガーの著作が引用してあるくだりがあります。それが次の文章。
「ひとが楽しむとおりに、わたしたちは楽しみ興じて、ひとが鑑賞し批評したりするとおりに、わたしたちは文学や美術を読んだり観たり批評したりするのです」(ハイデガー『存在と時間〈上〉』桑木務訳、岩波文庫、二四二頁)
この引用されてる箇所の前後で谷川麻美という女性は世間一般の平均的な普通の人々に対して嫌悪感を感じていることが示されてて、彼女自身はそういったその他多勢から抜け出したいと思っていることがわかるんですわ。
んで、そういう谷川麻美の文化を通して和夫はチンプンカンプンな『存在と時間』も、ふつう読書するときにそう考えられているような作者(=ハイデガー)との対話といった形ではなしに「谷川麻美的ハイデガー」との対話という形で上の引用箇所を理解することができたってわけです
ちなみにハイデガーが「ひと」と言っているのが谷川麻美が嫌悪する「世間一般の平均的な普通の人々」と重なるんですな。みんながそういうふうに考えるから、自分もそういうふうに考える──みたいなものをハイデガーは批判しているゆえ。
もちょっと突っ込んでおくと、「ひと」ってのは自分じゃなくても再現可能なこと、自分以外の誰かであっても同じようにできるっていう交換可能なことにこだわる思想でもありますのや。同じ条件なら誰でも同じ結果が得られる知ってのは科学界で重視されていますけれど、なにも、知がそういった “応用できる可能性ありきのものだけ” だというのではなくて、存在論に接近する方法に〈事実を調べること〉と〈意味を考えること〉があるみたく、「自分にとってどんな意味があるのか」に焦点を当てた知だってあるわけですわ
ハイデガーにしたって、彼がどんな経験があってどんな勉強をしてきたかってことから、限りなく事実に近い『存在と時間』の科学的な読み方ってのがあるにしても(これもまぁ哲学書なんで結局は読んで意味を受け取るって話にはなるんでしょうが)、そんなことより和夫にとっては、恋愛的感情を向けている谷川麻美がどんな関心からハイデガーが言っていることに共感しているのかっていう、「谷川麻美的ハイデガー」を読み解きたい気持ちのほうが強いし、意味があるのですねん。
以上の「本物の師弟関係」を踏まえて、先に引用したハイデガーの『存在と時間』の一節をややエロティックに書き換えるなら、こうなります。
あの人が楽しむとおりに、わたしは楽しみ興じて、あの人が鑑賞し批評したりするとおりに、わたしは文学や美術を読んだり観たり批評したりするのです
どうですかしら? こうするとずいぶん恋愛脳に汚染されている微妙なニュアンスが出るのでは?笑
 

まとめ

よーするに、恋愛は強し!──というわけでごぜぇます。ちゅーても『出来事』の小説自体は風紀紊乱もいいところで、インモラルな描写やら展開やらが続出してはいるんですけれど、この記事で取りあげた『存在と時間』を巡る一節は、なんというか、とてもエロティックな調子で〈文化〉や〈教養〉が語られていて素敵なのですよ。それらを教授する師弟関係を恋愛関係から見直しているのですもの。未読な方はぜひこの哲学・存在論小説を読んでみてくださいませ。
_了

関連資料

コメント

タイトルとURLをコピーしました