新聞を読む【わたしたち】を想像する集合的意識|+ユング

文学
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わたし(@dragmagic123 )は古書店が好きでして、ブックオフなどは破格の値段で専門書や古典書籍を購入できることから、「ブックオフは大学である」と語っていた時期がありました。閑話休題。文学者・外山滋比古が「新聞は大学である」と主張する本を出したのです。タイトルは『新聞大学』。この記事では「新聞は現代日本語のスタンダードだ!」と語るその本から「集合的意識」という概念を取りあげてみます。ユングの「集合的無意識」やアンダーソンの「想像の共同体」の話題に関心のある人は楽しいかも。もちろん、「新聞」に関心のある人(そんな人いるのか?)も読んでみてくださいな。
この記事で取りあげている本
 

新聞を読む【わたしたち】を想像する集合的意識|+ユング

新聞大学:新聞が持つ力について

ややこしい言い方ではありますが、わたしたちは、「わたしたち」という言葉を使うために、「わたしたちがわたしたちであるという一体感」を必要とします。友達であるためにも、家族であるためにも、何らかの根拠がいるわけです。
国民だってそうです。「わたしたち日本人は…」などと言うためにはそれなりの経過が要ります。国民にとってそれは歴史であったり、神話であったりする、としてみれば、神話学者ケレニーの次の言葉にも納得できるのではないでしょうか。
神話は事物を説明するのではなく、事物を基礎づけることのためにある。
(「Essays on a Science of Mythology」『ユング心理学入門』から孫引き)
すなわち、基礎付けられることによって、わたしたちは友達としても家族としても国民としても、「わたしたち」という一人称複数の呼称を用いることができるのです。
そうした基礎付けにはまた、「集合させる力」が働いていることも読み取れるでしょう。というのも、わたしたちは「わたしたちという形」(=共同体)へと集合したことによって、「わたしたち」の呼称を使えるのですから。
この記事で注目したいのはそうした「基礎付けさせ・集合させる力」です。そのために取りあげるのは文学者・外山滋比古が『新聞大学』のなかで紹介している「集合的意識(コレクティヴ・コンシャスネス)」というアイデアです。
これは「新聞が日本語の標準語を決定する」と説く著者が、新聞の持つ力を評した言葉です。ここまでの話題と絡ませるなら、新聞は日本語話者の「わたしたち」を基礎付けるものとなる、というわけですね。
 

集合的意識としての新聞を読むということ

文学者・外山滋比古が『新聞大学』で説いていることは、おおよそ次の一文で言い表せます。「現代日本語を代表するのは新聞である。新聞を読めば国語力もついて頭もよくなる。
この記事の関心から言うと、『新聞大学』で気になるのはむしろ、外山が “〈新聞〉をどのようなものとして位置付けているのか” です。
外山は学校の教科書が文学偏重の構えをとり、美文や名文を掲載する傾向にあるという点から、日本語使用のスタンダード(標準)からはズレがあることを指摘します。その上で、新聞の記事の日本語では、現代日本語を反映した標準的な日本語によって書かれていることを踏まえ、新聞を現代日本語のスタンダードを決定するものとして位置付けるのでした。
新聞が現代日本語の標準を定めている側面があることは、新聞が日本語話者の「わたしたち」を形成する力を持っている、ということにもなります。──そして、このことを外山は「集合的意識(コレクティヴ・コンシャスネス)」あるいは「コレクティヴ・スタイル(集合的な文体)」と言い表してもいるのです。

ユングの「集合的無意識」は自我意識を対象化する

ところで、心理学者にカール・グスタフ・ユングという人物がいます。彼が発見した概念に「集合的無意識」があります。この概念はユングが師事したジークムント・フロイトが精神分析をする上で用いていた「意識/無意識」の仮説に由来しています。フロイトは精神疾患に悩む患者個人に目を向ける形で上述の仮説を用いていましたが、ユングはもっと全体的なものに関心を向けました。
ユングが関心を向けたのは患者個人の「意識/無意識」ではなく、より普遍的なものとして「意識/無意識」を構想することでした。人間には意識がある。それはいいでしょう。さらに深層には意識を支える無意識があるのですが、フロイトがこれを「(無印の)無意識」とみなしたのに対して、ユングは「個人的無意識」と呼びました。そして、さらに深層にある無意識として構想したのが「普遍的無意識」。
普遍的無意識も集合的無意識も、どちらも「 collective unconsciousness 」の訳語ですが、以下では “集合的” という語の付いた「集合的無意識」を使用します。
改めて繰り返すと、フロイトが精神疾患の患者の問題を過去のトラウマに由来するものだとして、そのトラウマが押し込められた場所を「無意識」と名付け、そこをあくまでも個人的な領域として見立てます。しかしユングはもっと深みを目指しました。フロイトの発見した無意識領域を「個人的無意識」とみなした上で、さらにユングが掘り下げた先の領域は「人類に共通する記憶の遺産」とも言うべき領域で、これを「集合的無意識」呼びます
個人的無意識と集合的無意識の違いは、その主体が「個人」であるか「人類」であるかといったところから違っています。個人的無意識はある個人の意識生活上で抑圧したものの行き先であり、それでもなお印象的であるような経験の寄せ集めから成り立ちます。それに対して、集合的無意識の方では人類全体が共有するイメージ=表象可能性のアーカイヴ(記録保管庫)あるいはインターネット(電子通信網)となります
また、集合的無意識は自我意識にとって、 “対象として語ることができない” のも特筆すべきポイントになっています。個人的無意識では症状の分析から個人の経験や記憶に遡ることによって対象化することができます。しかし集合的無意識にあってはそれが不可能なんですね。そこではむしろ、「対象化ー被対象化」が逆転し、自我の側が被対象化されてしまい、集合的無意識の側から対象化されたものになってしまうのです

自己でありながら他者でもある「半他者としての新聞」

話を『新聞大学』に戻してみましょう。外山滋比古が「集合的意識(コレクティヴ・コンシャスネス)」と言うとき、ユングの発見した「集合的無意識(コレクティヴ・アンコンシャスネス)」を連想することは難しくないのではないでしょうか?
集合的意識では自我意識に対して、社会のスタンダードを示すことができる。──それが新聞というメディア(媒体)の持つ「基礎付ける力」だったのでした。
集合的意識に対して集合的無意識はどうかと言うと、新聞と同じく基礎付ける力を持ってもいます。しかし、新聞が記事を書く側にまわることができるのに対して、集合的無意識ではそれができませんし、それ以前に「新聞」という形で対象化することもできないのです
ここで少々、すでに述べたことと重複しますが、事典を捲ってみましょう。集合的無意識には次のような説明が付されています。
外的世界で個人に対して社会があるように,内的世界での集合的無意識は個人に対しての世界であり,他者である.また集合的無意識は自我意識にとっての対象ではなくて,逆に集合的無意識が主体で,自我がその対象となるという,視点の逆転をもたらす.
(『岩波哲学・思想事典』,p717)
外的世界と内的世界とが対比されている上の文章では、同時に社会と世界との対比が持ち出されていますね。個人に対して社会も世界も等しく他者であると説明されており、それと共に、他者の側からの対象化によって個人は発見されているのだといった解説になっています。これが集合的無意識のことである、というわけです。
事典での集合的無意識の解説から、集合的意識を説明するとしたら、きっとこうなるでしょう。
外的世界で個人に対して社会があるように,内的世界での集合的意識は個人に対しての社会であり,半他者である.また集合的意識は自我意識にとっての対象にもなり,逆に集合的意識が主体にもなるので,自我は主体にもなりその対象になりもするといった,視点の可逆性をもつ.
解説をしますと、「社会」は(自己とは違った)他者であるとはいえど、慣習であったり物の見方・考え方であったりといった仕方で個人に浸透しています。この点を踏まえて、社会は半分自己で半分他者といったふうに、自己でありながら他者でもあるという身分として描けるので、「半他者」の表記をしました。ここで言うところの半他者が新聞である、ということになります。
そして、集合的意識には半他者であるところの〈新聞〉がありえることから、自我意識にとっては対象化することが可能ですし、同時に、その対象化によって新聞の側が示す「現代日本語のスタンダード」からの影響を受け取ることにもなるわけです。

新聞は「わたしたち」を基礎付けて集合させる

集合的無意識が「わたしたち」を創造するのに対して、集合的意識は「わたしたち」を想像させると言えます。それはさながら、前者が『聖書』の「創世記」で神が人類を造ったことに重ねるとすれば、後者は『聖書』を読んだ人が神を信仰することと重ねられるでしょう
『聖書』の比喩はしかし、集合的無意識と集合的意識とでは対称的ではありません。後者の比喩で使える『聖書』は〈新聞〉と置き換えることができますが、前者ではその置き換えができないのですから。
集合的意識は「わたしたち」を想像させる。この点から連想を膨らめれば、政治学者ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』のなかで指摘したところと繋げることができるでしょう。すなわち、印刷業者が発行する新聞が「想像の国民共同体」の形成に決定的な役割を果たした、という指摘を。
アンダーソンの語る「想像の国民共同体」は、外山滋比古が現代日本語の担い手たる「わたしたち」と通じています。アンダーソンが取り上げる「想像の共同体」はある程度発達した文化的コミュニケーションが成立するところには現れるので、「文化的ではないものはないのではないか?」と疑ってみると、あらゆるものが文化的な「わたしたち=想像の共同体」だと判定することができるのですから。
「わたしたち」という共同性が形成されることはまた、成員に対して “帰属意識をもたらす” と共に、 “帰属していることによる安心感” さえもたらします
そのような実感を、外山滋比古は「新聞を読む」という経験のなかに見出しているのです。
新聞の記事は「集合的意識」(コレクティヴ・コンシャスネス)をあらわす。コレクティヴ・コンシャスネスには、特別な味わいがある。穏やかで、あたたか味があり、おもしろいのである。凶悪事件の報道でも、コレクティヴな文体で表現されると、興味深くなるのである。
(『新聞大学』,p230)
集合的( collective )。それはわたしたちを「わたしたち」として基礎付ける力。集合的意識( collective consciousness )。それはわたしたちを「わたしたち」として基礎付ける意志の現れであり、それこそが「新聞」なのである。──このことにうなずくことで、この記事と閉じることにします。
 

まとめ

新聞はふだん何気なく読んだり読まなかったりするメディアです。しかし〈新聞〉はじつはすごいものなのだ、ということを打ち出したのが外山滋比古の『新聞大学』なのでした。その本で主張された「新聞は現代日本語のスタンダードである」を皮切りに、この記事ではその本の中の、特に「集合的意識」の概念に注目することで、新聞が持つ「わたしたち」を基礎付ける力を見ていきました。それは一種の文学的な効果の話題でありながら、人間の心のあり方を決定する心理学でもあり、人間の帰属先を取り決める政治学の話題でもあったのです。──てことで。新聞、読んでみませんか?
_了

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