どうも、朗読者ザムザです。
今回はパウル・ツェランというドイツ系ユダヤ人の詩人の本を読みましたので、記事にしました。
ツェランを手に取ったきっかけはSNSの投稿でした。「ツェラン最高!!!」などというメッセージ……だったかどうかは定かではありませんが、ツェランの詩が絶品であるというコメントを見かけたのは確かです。感化されたわたしは早速ゲットした、というわけです。
パウル・ツェランの詩、およびその他の文章が収められた『パウル・ツェラン詩文集』。その本から出発して見えたツェランという詩人のことをまとめています。
- パウル・ツェランはドイツ系のユダヤ人であり、両親をナチスの強制収容所で亡くしている。のちに詩人となったツェランを語るうえでも、また、彼の詩を読むうえでも、自身がユダヤ人であることとナチスの経験は必須である。
- 2012年に刊行された『パウル・ツェラン詩文集』は、2011年の東日本大震災で傷ついた日本人の慰撫を意識して作られた本である。ツェランの詩には、極限状況のなかで命を落とした死者たちへの想いが込められている詩が多くあり、編者はそれに類する詩を収録した。
- パウル・ツェランの芸術論・詩論に「子午線」という講演録がある。ツェランはその中で人間には独自の「存在の傾斜角」があるとし、詩人が自身に固有の角度に沿って進行する先に「別のもの」としての自分自身を有声化することで、詩は固有の時間を開示すると語る。
【投壜と子午線】詩人ツェランあれこれ|パウル・ツェラン詩文集
パウル・ツェランとは誰か
パウル・ツェラン(1920-1970)はドイツ語系のユダヤ人であり、ナチスの強制収容所(ホロコースト)で家族を奪われた詩人です。彼自身はユダヤ人ゲットーおよびルーマニアの労働収容所で労働を課せられたくらいで済みましたが、それでも両親をナチスに奪われた経験はツェランという詩人の人生を大きく変動させたことは確かです。
以下ではツェランの人生の特筆すべき部分をピックアップしてご紹介します。
ナチス強制収容所から詩人パウル・ツェランの誕生まで
1920年、ウクライナ共和国のチェルノヴィツ(旧ルーマニア領)でユダヤ人の両親のもとに生まれます。ひとりっ子でした。第二次世界大戦がはじまると、ドイツ・ルーマニア連合軍によって故郷が占領され、両親はナチスの強制収容所へ連れられ、殺されます。ツェランもまた強制労働収容所へと連行されますが、1944年に無事に故郷であるチェルノヴィツ(1943年はソ連領下)に帰ることができました。
パウル・ツェランは収容所のなかで詩を書いていました。1945年にブカレストへと移り、翻訳者・編集者生活を送りつつ、自分が書いた詩を新聞に投稿。1947年にはツェランの詩がユダヤ系詩人であるアルフレート・マルグル=シュペルバー(1898-1967)に認められ、思想家のエミール・シオラン(1911-1995)が発行していた雑誌『アゴラ』に掲載されます。
1947年の冬に食うや食わずやの徒歩旅行でウィーンに移り、最初の詩集『骨壷からの砂』を発表。翌1948年にはフランスへと旅立ち、そのまま1970年に亡くなるまでパリで暮らすことになります。
息子の死、盗作告発、統合失調症。そして自殺まで
1952年にカトリック教徒であり版画家のジゼル・レストランジュと結婚。翌1953年に長男フランソワが誕生しますが、生後まもなく死亡。1955年に次男エリックが生まれ、同じ年にフランス国籍を取得します。
ツェランは1949年に、当時、重い白血病で入院していたシュルレアリスムの詩人イヴァン・ゴルを見舞います。ゴルは1950年に亡くなりますが、このときにツェランがドイツ語訳を頼まれて預かったゴルのフランス語の作品がのちの『ゴル事件』の発端となります。
『ゴル事件』は詩人イヴァン・ゴルの夫人であるクレール・ゴルによる、ツェランへの執拗な盗作告発および中傷を行った出来事です。このことは生涯ツェランを悩ませ、ツェランの精神に異常をもたらした原因として数えあげられます。そして実際に、ツェランは1961年に精神障害を来たします。
ツェランが42歳のときに、自分自身が統合失調症であることを認めて、1962年の年末に精神病院に入院。これ以降、晩年まで入退院を繰り返すことになります。1967年の1月にはペーパーナイフで自分の胸を突きますが、心臓を外れて自殺は未遂に終わります。そして1970年、ツェランが49歳のときにセーヌ川へ投身自殺をし、生涯を終えました。
パウル・ツェランの教養およびキャリア
1938年に中等教育機関であるギムナジウムを卒業した18歳のツェランは、まず、フランスにあるトゥール大学の医学部の予科に籍を置きます。こうしたフランスへの留学は、当時のチェルノヴィツのイイトコのお坊ちゃんには普通のことでした。翌1939年の7月に故郷チェルノヴィツに戻りますが、9月に第二次世界大戦が起こり、フランスに戻れなくなります。
トゥール大学に戻れなくなったツェランは、11月からチェルノヴィツ大学でフランス文学を学びはじめます。
戦後、1948年にフランスのパリに住みはじめた頃に、今度はソルボンヌ大学の独文科でドイツ文学と言語学を学びます。1950年にソルボンヌ大学を卒業し、文学士号を取得します。30歳になったツェランは詩作と共に翻訳と文筆の仕事をはじめるのでした。
その後に1959年にはソルボンヌ大学の独文科の講師となり、この職はそれ以降、生涯続けることになります。
パウル・ツェランの業績と親交
1956年に記録映画『夜と霧』のドイツ語翻訳をツェランが担当します。また、同じ年に作家のギュンター・グラス(1927-2015)と知り合います。
1958年にはフランスの詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)の詩集『酔いどれ船』を翻訳刊行。
1959年には哲学者テオドール・アドルノ(1903–1969)に会いそびれ、ツェランは架空の対話として短篇「山中の対話」を書きます。(アドルノとは翌年に会うことになります。)
1960年には、詩人ネリー・ザックス(1891–1970)と会い、哲学者マルティン・ブーバー(1878-1965)とも会っています。また、この年には著述家のポール・ヴァレリー(1871-1945)の代表作『若きパルク』を翻訳刊行しています。ツェラン40歳。
他にも1966年に詩人アンリ・ミショー(1899−1984)の翻訳詩集を刊行したりなど、翻訳家としてのツェランも、詩人としての業績に劣らずドイツ語圏への文化的貢献はかなりのものです。
1967年には精神不安定に陥り、ツェランはペーパーナイフで左肺を刺します。このときのケガの治療で入院しているあいだに哲学者アドルノ、精神分析家ジークムント・フロイト、詩人エドモン・ジャベス、哲学者レフ・シェストフ、小説家トーマス・マン、人類学者レヴィ=ストロース、劇作家シェイクスピアなどを読んでいます。
ハイデガーとの対話
また同じく1967年には、哲学者のマルティン・ハイデガー(1889-1976)がフライブルク大学で開かれていたツェランの詩の朗読会を訪れます。このときにツェランは、ハイデガーに誘われ、次の日にハイデガーのトートナウベルクの山荘にお呼ばれしています。
ツェランはハイデガーを快く思ってはいませんでした。なぜならハイデガーは卓越した哲学者ではありましたが、ナチスに加担したという面もあったからです。しかし同時に、ツェランはハイデガーに対する畏敬の念がありました。というのも、ツェランはハイデガーの著作の読者でもあったからです。評者の中にはツェランの詩はハイデガー哲学との対話から生まれた作品であると見なす者までいます。(たとえばジョージ・スタイナーやラクー=ラバルト)
トートナウベルクでの3日間の滞在中に、ツェランはハイデガーを問い詰めます。その内容は明らかではありませんが、少なくともツェランとハイデガーとの関係上、とても重大な会話が交わされたことは確かです。しかしハイデガーは、ツェランに対して「無言」でもって応答し、ツェランを幻滅させることになります。
トートナウベルクの滞在のあとに、ツェランは「トートナウベルク」という詩をハイデガーへと書き送っています。ハイデガーは返事の手紙を書きますが、そこにもツェランの重大な問いへの応答はありませんでした。そこに書かれていたのは、思想的戦犯者としてではなく、哲学者としてのハイデガーのメッセージに過ぎなかったのです。ハイデガーの手紙は詩人としてのツェランを讃えるものに過ぎませんでした。
フランス文学者の宇京頼三(1946-)の推理では、ハイデガーからの手紙が「贖罪の手紙ではなかった」ことがツェランを幻滅させることになったのであろうと考えられています。
ちなみにハイデガーの息子ヘルマンは、父親はツェランがユダヤ人であることを知らなかったのだと証言しています。しかしハイデガー自身はツェランの作品にはすべて目を通していると語っていて、ツェランが陥った深い危機もよく知っているのだと語ってもいるのです。真相はどうあれ、ハイデガーのツェランへの対応がマズかったことは間違いありません。
パウル・ツェランの詩を読む前提知識
詩人パウル・ツェランの名声はドイツでは、戦後もっとも名高い詩人のひとりとして数え挙げられます。「戦後」というのは、第二次世界大戦のことで、ツェランはナチスドイツの悲劇を引きずる詩人のひとりでした。
ツェランはナチスの強制収容所で父母を亡くしており、とくに最愛の母親が銃殺(うなじ撃ち!)されたことは甚大なものとしてツェランの精神に刻まれることになったのです。そうした詩人の精神に刻まれた経験は、当然のようにツェランの詩にも反映されています。それゆえにツェランの戦争体験の悲劇は、彼の詩を読む場合の前提に置かれるべきものなのです。
戦後のツェランは「ユダヤ的なもの」に関心を持ち、ユダヤ系の宗教学者でもあるマルティン・ブーバーの著作を読み込みます。「ユダヤ的なもの」とは、絶対的にマイノリティ(少数派)であることです。このマイノリティの意識は、ツェランにとって単に自身がユダヤ人であることばかりに留まるものではありません。
1959年に発表された短篇「山中の対話」のなかでは以下の「三つの絶望」が描かれています。
- ユダヤ人に降りかかった災厄への絶望
- 収容所という極限状態に置かれた人間同士に愛が存在しえなかったことへの絶望
- 災厄の後にのうのうと生きていること自体への絶望
ツェランの翻訳者でもあるドイツ文学者の飯吉光夫(1935-)は、ツェランの詩はうえに挙げた絶望の中で、どうにかして生者への愛を復活させたく願う試みなのだと見なしています。
飯吉はまた、ユダヤ教徒としての信仰を否定することに転回したことにも触れています。すなわち、ツェランは救済に現れなかった神への信心を詩への信心に変えたのである、と。こうした詩作態度を生涯にわたって変えなかったことが、ツェランの詩の一貫性なのだと飯吉は言います。
ツェラン豆知識:アンツェルからツェランへ
『パウル・ツェラン詩文集』について
『パウル・ツェラン詩文集』は2012年に刊行されました。その前年の2011年には東日本大震災があった年です。巻末の訳者解説によれば、パウル・ツェランの代表的な詩文集を刊行するにあたり、編集部からある要請があったと書かれています。その要請とは、収録するツェランの「詩」はなるべく震災以降の人の心に響くものを、というものでした。
ツェランは第二次世界大戦の戦禍に生涯付きまとわれることになりました。とりわけ強制収容所の出来事は、ツェランの詩の多くに散りばめられています。言い換えれば、ツェランの作品には、想像を超えた出来事の只中で落命した死者たちへの想いが込められている詩が多くあるのです。
ツェランの訳者であり『パウル・ツェラン詩文集』に収録する詩の選者でもある飯吉光夫は解説にて次のように述べています。ツェランの、極限状況にいた人間(死者)たちへの想いに駆られて書かれた詩は、東日本大震災という未曾有の大災害を被った日本人の状況にも当てはまるだろう、と。
かくして『パウル・ツェラン詩文集』は、東日本大震災で傷ついた日本人に向けた「生き残った者たちへの慰撫」と「波に拐われていった死者たちへの慰霊」という理念のもとで編まれることになったのです。
内容紹介
ここでは『パウル・ツェラン詩文集』のなかからツェランの作品を4つほどご紹介します。取りあげまるのは主に詩文の「文」の方になります。
解説:「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶(1958年)
ツェランの有名な詩論である「投壜通信」論。ツェランの詩人としての詩に対する期待が語られています。手紙を入れた壜(メッセージ・イン・ア・ボトル)が海に投じられ、いずれは誰かの手に拾われる━━それが詩の期待である、と。
以下、元の文の雰囲気を残すかたちで解説してみます。
言葉だけが、失われていない
「もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。」ツェランはそう語った。言葉は戦争に利用され、その戦争を言い表すことができないほどの恐怖に沈黙を強いられながら━━それらすべての出来事に豊かにされて、残ったというのだ。
ツェランは喪失の経験のなかにあって、言葉による詩作を続けた。なぜか。それは語るべきことを語るためであり、自分の方向を定めるためであり、自分自身に現実を設けるためだった。すなわち、自分のどこいいて、どこへ向かうのかを知るために。
詩は「無時間のもの」でも「時をとびこえるもの」でもない。ツェランによれば、詩は永遠の性質を必要とするものの、しかもそれは、あくまでも時間を通り抜けることで到達されるのである。さながら言葉がすべての出来事に豊かにされるように。もしくは詩人が詩作によって自身の方向を得ようとするように。
投壜通信としての詩
詩は言葉の一形態である。言葉は本質的に対話的だ。ようするに、「わたし」と「あなた」の関係が必須なのだ。このことは言い換えると、ひとつの岸辺に対していくつもの別な岸辺があるということだ。ツェランの認識では、詩も言葉と同様に対話的なのだという。そしてツェランは、詩は自分が立つ岸辺からあるメッセージをどこかの岸辺に届くことを願って海へと流される「投壜通信」のようなものなのだと考える。
詩が投壜通信なのだとすれば、そのメッセージはいったいどこを目指すというのだろうか。ツェランいわく、それは「何かひらかれているもの」であり、「獲得可能なもの」であり、そして「語りかけることのできる「あなた」」、すなわち「語りかけることのできる現実」という名の岸辺を目指しているのだという。
以上のような、別の岸辺であるような現実こそが詩の関心ごとなのだ、とツェランは考えたのである。そのための努力は「あなた」から「あなた」へ、現実から現実への彷徨となる。言葉だけは失われることなく流れを渡している。詩人はみずからの存在と共にその言葉に沿って、詩を投壜するのである。投壜通信が海へと流すことこそ、言葉に賭ける詩人の努力なのだ。
翻案:「子午線」(1961年)
「子午線」はドイツ最高の文学賞とされるビューヒナー賞受賞の際の講演です。賞の名に冠しているゲオルク・ビューヒナー(1813-1837)の作品に触れながら、ツェラン自身の芸術論を語っています。仮構物(作り物)としての芸術への反発を示しながらも、芸術を擁護するための詩および詩作の位置づけについて語るのです。
以下、本文を適宜、翻案したものになります。
自己から遠のくこと・詩の晦渋さ・存在の傾斜角
人が芸術を前にするとき、芸術は一定の方向へと「自己から遠のくこと」つまりは「距離」を作り出します。しかしその距離というのは、詩が後にしてきた道のりなのです。詩人は芸術に没頭している芸術家の先を歩いています。詩の姿は一定の方向へと進むなかにおいて見えるものなのですから。
詩が晦渋(難しく、わかりにくい)だと言われることがあります。しかしそれも詩が向かおうとしている行方に由来しています。その詩を書くこと・読むことで出会うことができる「遠くのもの・疎ましいもの」が明快ではないからこそ、詩の形もまたそれに相応しい表現を取ることになるのです。
詩は、さまざまな特徴や経験によって織りなされる、自己の独自な「存在の傾斜角」のもとで言葉を語っていることを忘れない人間の詩の中にのみ見出されるものかもしれません。だとすれば詩は、ひとりびとりの人間の特異的な姿をとった言葉であり、内面的な本質である点からは、現在であり現前でもあるのです。
存在の傾斜角を備える詩人と「別のもの=あなた」との対話
詩が一定の方向へと「自己から遠のくこと」、すなわち、ひとりびとりに特異な「存在の傾斜角」に従ってある方向へと赴くことは、自己自身とは「別のもの」へと赴くことでもあります。別のもの━━ひとりの相手を、詩は必要とするのです。詩はその相手を訪ねて、語りかけるのです。
「別のもの」へと赴く詩にとっては、どんな書物も、どんな人間も、「別のもの」の姿だと認識します。それらの「別のもの」と「ひとりの詩人」との対話が、詩を形あるものにするのです。この対話の空間から、語りかけてくるものが言葉にして名指そうとする「わたし」のまわりに集まってきます。そして名指すことは、語りかけられたものを「あなた」として召喚することでもあるのです。
「あなた」として現れた「他のもの」は、詩自身が現前する只中において語られることになります。そのことは、「わたし」たちにとっては「別のもの」であり、かつ、ひたすら固有なものを、ひとりびとりの「存在の傾斜角」と共に詩の現前のうちで語ることになるのです。
以上の、「存在の傾斜角」を備える詩人と「別のもの」との対話の空間に生成する時間が、詩の空間において語られることになるのです。
「他のもの」と共に円環的な子午線に触れる
詩の営みは、詩が芸術の先を行くことになることで、芸術の領域の拡大を使命にしているように見えます。しかしそれはあくまでも結果に過ぎません。そうではなくて、(詩は)芸術と共に、ひたすら自己自身の固有の狭さの中へと潜り、その只中において、芸術家自身を解放することが賭けられているのです。
しかし、それは絶望的な対話でもあります。なぜなら、時間を語ることは「どこから」と「どこへ」の問いかけを含むからです。開かれていて、移ろいやすく、広がりのある場所。そうした場所を目指す道を行くこと。あるいは、詩作における「あなた」から「あなた」への回り道。しかも他にも道はたくさんあるのです。ところが、その多くある道のすべてが有声のものではありません。言葉が有声のものとなる道、すなわち、━━詩人としての「わたし」の気配を感じている━━「あなた」と出会うことができる「一つの声の道」があるのです。
存在の投企としての詩作。詩人が詩を先立てて、自分自身であるところの詩へと赴くこと。詩という形で前方に立てられた自分自身を求めていくこと。つまりは「一種の帰郷」。━━ここには「わたし=詩人」と「あなた=別のもの」との円環的な構造があります。
ようするに、「別のもの」であったもののうちに自身の故郷を見出すのです。しかしそこにこそ、両極を超えておのれ自身に立ち戻ってくる円環的な子午線のごとき結びつきがあります。「他のもの」と共に自身の子午線に触れること━━それこそが詩作する詩人の務めなのです。
鑑賞:「逆光」(1949年)
「逆光」はツェランの箴言集(アフォリズム)です。箴言そのものも鋭いものですが、ツェランの伝記的事実や「子午線」などの芸術論を踏まえて読むこともできるものになっています。
以下、「逆光」の中から3つの箴言をピックアップし、どういう読み方できるかを見ていきます。
花を埋葬せよ、その墓に人を供えよ

時間が時計からとび出して、その前に立ち、正しく進むよう命じた
「万物は流転する」━━この考えも。すると、この考えは万物をふたたび停止させるのではないだろうか?
要点:「ハンス・ベンダーへの手紙(1961年)」
この手紙はツェランが自身の詩への全霊を賭けて取り組む姿勢を表明したものです。
以下では要点を箇条書きにしてご紹介します。
- 詩人は詩が出来上がってしまえば彼がもともと有していたそれとの共犯関係から解き放たれる。
- 手仕事というものは、丁寧さがそもそもそうであるように、あらゆる詩作の前提であり、そこにはまたさまざまな奈落や深淵があります。
- 手仕事━━それは手にかかわる事柄です。そしてこの手はといえば、それはどうしてもひとりの人間のもの、つまり、みずからの声とみずからの沈黙とをたずさえてひとつの道を求める死すべき運命を背負った一回かぎりの霊的存在のものなのです。
- 真実の手だけが真実の詩を書きます。わたしは握手と詩との間に原則的な違いを認めることができません。
ツェランは、詩人と詩的なものとの共犯関係を、手を媒介にした手仕事関係として言い換えています。
はじめに、詩人は詩の完成によって共犯関係から解放されると指摘します。これが手仕事のイメージだと手に持っているうちは丁寧さを施すことができ、やがて手放すこともできるのです。つまりは手仕事関係にもまた仕事からの解放があるとイメージすることができます。
また、死すべき運命にあることは、丁寧に扱っているその対象が、自分が死につつある時間そのものを象徴しています。その意味で、同じく自分の死にまつわるという原則からは、握手と詩との間にも違いはないのです。どちらも握り・書いているうちは自分が死につつある時間を捧げていることになるのですから。
以上の「ハンス・ベンダーへの手紙」を読む際にわたしが参考になると考えるのは、ツェランの詩集『糸の太陽たち』にある「おまえは」(Du warst)という詩です。
おまえは
おまえはぼくの死だった━━
おまえをぼくはひきとめておくことができた、
ぼくからすべてが脱落したときも。
訳者である飯吉光夫の解説では「自分はずっと死を思いとどまっていた」という内容だとされています。しかし、この詩は詩人と詩との詩作上の共犯関係を書いたものとしても読むことができます。
すなわち「おまえ」を「詩」と読んでも、あるいは「握手」の相手と読んだとしても、いずれも「死すべき運命を背負った一回かぎりの霊的存在」としての人間の姿をイメージすることができるのです。
「ハンス・ベンダーへの手紙」では、詩人の詩との関係を語りながら、手仕事的な丁寧さを介してこそ、真実の詩が書けるのだと書いてあります。そしてまた、ツェラン自身が詩作において手仕事の丁寧さに賭けていることを表明してもいるのです。
まとめ
パウル・ツェランの詩は難解だと言われています。それはツェラン自身が方向付けられていたものに由来しています。『パウル・ツェラン詩文集』の詩は東日本大震災の後の日本人に向けて集められましたが、ツェラン自身もまたナチスの強制収容所の後の世界のなかで苦しみ、詩を書いてきました。苦しみは比較することはできませんが、ツェランの詩にこだまする有声無声の声を聞くことは、読むものの心に何かしら響くものがあるはずです。
_了
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