暗殺者の妄想知覚から精神分裂病(統合失調症)を考える|暗殺学

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どうも、ザムザ(@dragmagic123 )です。吾人が今回投稿するのは影山任佐の『暗殺学』。世界書院の《ぷろぱぁ叢書》の一冊として刊行されたこの本は、犯罪学者である著者が暗殺を主題にして「暗殺学」を提唱する意欲的なものです。当記事は一種の読書メモのような造りとなっていて、おもに著者が〈暗殺〉と精神分裂病(統合失調症)との関連を追う体裁を取っています。健常者の知覚も妄想の一種だとわかったりできる楽しい本です。

この記事で取りあげている本
 
この記事に書いてあること
  • 〈暗殺〉は被害者の社会的影響力と加害者の非個人的な動機から定義される。影山任佐によって提唱された「暗殺学」は暗殺の原因およびその対策を探求する、暗殺現象全般を解明することを目的とした学問である。母胎となっている犯罪学がそうあるように、自然科学・社会科学・人文科学などの研究を学際的な目配せが期待される。
  • 暗殺犯には精神分裂病(統合失調症)の患者である場合がある。彼らの犯行は分裂病の症状である妄想知覚に基づいたものなのだ。分裂病にあっては意味把握の体験が変わってしまう。暗殺犯の病的精神を廣松渉の「共同主観的存在構造=世界の四肢的構造」から見れば、四肢的な主観構造の分裂として記述できる。
  • 精神分裂病(統合失調症)では世界の受動的中心として自己が経験される。暗殺犯の妄想世界では、自身を圧倒してくる世界には能動的中心が現れる。その措定は魔術的力によってなされ、魔術的変形によって対象を妄想世界の内部への影響力をもたらす。そのような対象を暗殺することは受動的な立場に圧倒されている自己を救済する英雄的行為となる。
 

暗殺者の妄想知覚から精神分裂病(統合失調症)を考える|暗殺学

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暗殺・暗殺学・その傾向

ここでは影山任佐の『暗殺学』を読んでいく上で、「暗殺」の定義を確認し、それから「暗殺学」を立ち上げようとする著者の狙いを見ていく。加えて、暗殺にはどのような傾向があるのかに関する雑学的な知識を取りあげる。

「暗殺」の定義

 著者は、大概の〈暗殺〉の定義が静態的であったことを指摘する。被害者の立場に偏って政治的身分の高さに焦点を当てたものや、加害者の方に寄って犯行動機の政治性に焦点を当てたものなどがそうだ。マシなものとしてはドイツの犯罪学者ミッデンドルフ(Middendorff)の次の定義がある。
次のような被害者に対する殺人の企てに暗殺の用語を使用する。すなわちこの被害者は国家の朝、もしくは突出した地位を占めているか、あるいは別の形でこのような地位を代表しているか、または犯人にとってこれらに相当するたんに象徴的価値を有している者である。この意味で暗殺は政治的謀殺の一型である
 この定義がマシな理由は、〈暗殺〉の実態として、加害者の動機形成の特徴に精神障害が影響している事例が多いという点をカバーできることだ。精神障害が動機に強く影響している場合、必ずしも、社会一般的な意味における “政治的” だとは言えない。しかしミッデンドルフの定義だと個人単位の「象徴的価値」を取り上げていて、社会一般にとっての政治的意義とは別途でありうる、個人的な政治行動としての〈暗殺〉を把握できる。
 とはいえ、ミッデンドルフの言う犯人における被害者の象徴的価値というのは、定義としては第三者の側からすると曖昧だ。なぜなら個人的な事情を背景にした犯行だけでは私怨と大差がなくなってしまうから。私怨などの個人的な利害関係に基づいた犯行は暗殺的ではない。なので、被害者の側の影響力が加害者のみに限定されるのであってはならないのだ。つまり、〈暗殺〉の概念を把握する上では、被害者の社会的影響力と加害者の非個人的な動機とに目配せしなくてはならない。
 著者が提案する〈暗殺〉の定義では、被害者の影響力を「被害者の社会に対する影響力」として押さえる。その上で、加害者の動機にも「非個人性」という特性を導入する。これらを総合する形で、暗殺を定義するのに二つの観点が与えられる。すなわち、一つは「被害者の社会的影響力の強さ」であり、もう一つは「加害者の犯行動機の非個人性」である。
 

「暗殺学」の定義

 「犯罪学(criminology)」なる学問がある。19世紀末にイタリア人ロンブローゾが開拓した研究ジャンルで、個人・社会・政治・経済・歴史をも視野に入れた犯罪現象を対象にする。「暗殺学(assasinology)」はその派生に位置付けられる影山任佐の発明だ。
 しかしは暗殺行動に関連した研究は多くはなく、進んでもいない。理由は暗殺が極めて稀な犯罪であることが大きい。また、暗殺に関する研究の殆どが政治的な利害と密接であり、公にすることが憚れられるといった政治的配慮が絡むことも理由として挙げられる。
 そうは言っても、未遂既遂問わず、暗殺の影響力は大きい。暗殺の定義が明確に「政治的殺人」である以上、いち現象として等閑視できるものではない。ロンブローゾは政治犯罪に関して、「社会病理学的認識を具体化する表現の必然であり、人間の歩みを促進するためには当然のものである」と考えている。すなわち、人体が病気に罹ると症状が出るように、暗殺現象は社会が病いに罹患していることの表現であり、その表現によって社会は進歩することもできる、そのような両価性を帯びているというわけだ。その点から、暗殺者を革命家と並べ立てることができるだろう。
 以上の犯罪学の源泉や政治的な含意を踏まえた上で、著者が提唱した暗殺学は次のように定義される。「暗殺学は暗殺の現象、その原因およびその対策を探求する学問であり、その研究方法は自然、文化の個別諸科学全体に求められ、学際的な方向性を持つものである」。
 

暗殺の傾向

 ここでは暗殺の実態からわかることを取りあげる。しかし統計的なデータを踏まえて『暗殺学』の本文をぐだぐだ追跡することはしない。それは実際に本に当たってもらう方がいい。その代わりに、データの上澄みを掬うようにして、トリビアルな知識程度の情報をさらうことにする。
  • 国の人口の多さと暗殺件数の量とは比例しない
  • 全体からすると暗殺は3月の早春期にもっとも頻発する(ただし日本は冬季に集中)
  • 暗殺場所は欧米では戸外や公共施設であるのに対して日本は屋内が多い
  • 暗殺犯の大半は背後から被害者を襲う
  • 暗殺犯年齢は20代が犯罪史上もっとも多い(ただし一般犯罪でも同様)
  • 暗殺対象に選ばれるのはほぼ男性である
  • 暗殺頻度は国の近代化と自殺率とは負の相関を示す
  • 暗殺頻度は国の圧政度合と曲線的関係にあり、弾圧が強い国と寛容な国では低くなるものの、弾圧程度が中間的な国では高くなる
 暗殺の被害者になりやすいのは社会的な象徴的権威を持つものである。では、その性格に関してはというと、アグレッシブでクリエイティブで現実世界に対して肯定的な見方をしている人物が多い傾向にある。それに対して日和見主義的で俗物的な人物であると暗殺の可能性が下がる。これは、現実に失望した暗殺者が、希望を与えようとするカリスマ性を持つ権力者に対して、己れの失敗した人生の責任を転嫁し、その死による代償を請求するからであろうと考えられている。
 

精神分裂病・妄想・共同主観的存在構造

ここでは影山任佐の『暗殺学』において主張されている、暗殺と精神分裂病との関係を見ていく。暗殺犯は分裂病の症状として妄想知覚の状態にあるものとして、そのような精神構造を哲学者・廣松渉の「共同主観的存在構造論」を参照することで確認する。

暗殺と精神分裂病

 米国における大統領暗殺犯や暗殺脅迫犯には精神障害者が多い。とりわけ精神分裂病者──今風に言えば「統合失調症」が適切な表現だが、後に見るように、当記事では精神病理を診断するのではなく、人間精神の哲学的な属性を記述するための概念として「精神分裂病」を使用する──が占める数は多い。精神分裂病だから暗殺をすると短絡的に言うことはできないが、精神病理性の暗殺犯であった場合の多くが精神分裂病者であると診断されることは無視できない。
 精神分裂病はオイゲン・ブロイラーによって1911年に提唱された。思考・感情・意志に統一性がなくなってしまうこと──そのような精神の分裂状態がメインの症状であると診られるが、現在(たとえばDSM-5)の診断基準にあっては妄想や幻覚に重点が置かれた説明がされる。被害者の象徴性を相手どる暗殺者であるから、当然のように同じ精神分裂病でも(破瓜型や緊張型ではなく)妄想型に分類されることが多い。
 しかし、妄想型の精神分裂病者だからと言って必ずしも暗殺犯になるわけではない。著者もそのような根拠はまったくないと断言している。──そうは言っても、精神分裂病はザ・精神病とも言える位置にあり、そのうえ不可解であるときている。本書の発表が1984年だが、当時の著者・影山任佐をして…
暗殺を通して精神分裂病者の世界が幾らなりとも開け、その理解が深まり、逆に精神分裂病者の暗殺について洞察を深めることによって、暗殺者一般の精神構造に対する理解に何らかの寄与をなし得るのではないかとの期待もある
…と書かせているのも、精神分裂病に対する精神病理学界隈の世界的な関心の高さに負うところが大きいだろう。
 犯罪学的研究上では、精神分裂病者は犯罪率は多くない。しかし犯行に至った場合は殺人などの重大犯罪となることが多い。その被害者には一般人よりも家族や親しい友人知人がなる傾向にあり、これといった縁のない他人に対して危害を加えることは少ない。
 とはいえ、先ほども挙げたように暗殺にあっては、相手が大統領の場合を思えばわかるように、家族や友人および知人ではないことが多い。著者は次のように語る。
暗殺の視点から精神分裂病者による殺人の被害者を分類すると、「家族殺人」(Familienmord)と「暗殺」、すなわち家族と国家元首に代表される「被害者の二極分解的方向性」の特徴を有しているとも言える。
 家族か、国家元首か。もっとも近い者か、もっとも遠い者か。この二極化を知ると精神分析理論における「エディプス・コンプレックス」を思い出さずにはいられないだろう。──エディプス・コンプレックスとは「両親との関係における幼児の感情的葛藤の総体」であり、成長してからも人間関係に影響を及ぼすことになる。自分に規範を押し付けてくる存在を象徴的に見出し、それを克服できなければ自分はダメになる、といった思い込みが高じて息子が父親を殺すことがあれば、それはエディプス・コンプレックス的な事例に当たる。──しかし、実際の精神分裂病の暗殺犯の鑑定120件においてエディプス・コンプレックスの状態にあることを認めた者はいなかったという立場もあり、著者はむしろ精神分析よりも哲学の方(現象学)に肩入れする。
 

妄想知覚と意味把握

 さしあたっての問題は暗殺犯の「妄想知覚」にある。妄想知覚とはK・ヤスパースが命名したもので、実際の知覚に対して非合理で了解できそうもない異常な意味を看取する状態をいう。それは妄想がない人にとっては二つのことはまったく無関係に見えたとしても、妄想知覚の状態にある人にとっては直接の意味的なつながりを持ってしまう体験である。妄想知覚を取りあげるときには必ず引用されるK・シュナイダーの症例を見よう。
ある分裂病者は、犬について三つの奇妙な、意味深長な体験をしているが、その最後の体験を次のように語っている。「カトリックの修道院の階段の上に、一匹の犬が直立の姿勢で私を待ち伏せていて、私がそばによると、まじめな顔で私をみつめ、一方の前足を高くあげました。たまたま私の数メートル前を男の人が歩いていたので、大急ぎで追いついて、彼にも犬が挙手の礼をしたかどうか急いでたずねました。その人が驚いたように、『いいえ』と答えたのを聞いて、私はこれは明らかに天の啓示に違いないという確信を持つようになりました。」(『臨床精神病理学』平井、鹿子木訳、p16)
 他の人からするとどうしてそうしたつながりになるのかがわからない、感情移入できない体験、ところが当人にとっては確信を持って「そうだ!」と頷ける(異常な)意味が生じている。上のシュナイダーの例で言えば、①自分がたまたま目撃した一匹の犬の挙動が、②見ず知らずの他人の言動を通して、③自分にとっては明らかに天の啓示に違いないと確信する──了解可能な因果としては、①と②との関係につながりはこれと言って指摘できず、さらに③の確信に発展するとなると飛躍があることが明らかに見える。
 ヤスパースは患者の感情的背景から了解できる妄想を「妄想様観念」と名付けた。これをシュナイダーは「妄想様体験反応」と書き換え、「二分節性」の視点から「妄想知覚」と「妄想着想」という概念によって〈妄想〉の整理を行った。妄想知覚では知覚する者から知覚される対象に向かうベクトルがあり(第一分節)、知覚された対象に対して異常な意味づけを行う(第二分節)。それに対して、妄想着想には一分節性を有していて「自分は〇〇である」という確信を一挙に行う。妄想着想の一分節性は病的なものではなく、むしろ正常であって、物事を比喩的に自分自身に引きつける精神作用の全般を指す。ところが妄想知覚における二分節性では了解不能であり、病的とされる。──こうした知覚構造の違いに着目することで理論上の区別ができ、精神分裂病の診断にとって重要な視点であるとされた。
 トップダウン式の診断に重点を置いたシュナイダーの考えに対して、マトゥセックはボトムアップ式の具体的な把握を重視した。マトゥセックは哲学者フッサールの現象学の立場に依拠する。フッサール現象学の立場では、対象の意味を把握する際には正常/異常に拘らず、認識主体の二つの作用があるとされる。意識が何かを意識している状態および作用である「意味志向」と、対象からのシグナルを受け取りつつ何らかの具体的な意味に結実させる作用である「意味充足」だ。──現象学的な意味充足の視点からすると、正常/異常を不問にすればシュナイダーの意味把握の二分節性は、妄想症状の特殊性を明かすものではないというわけだ。
 マトゥセックの妄想知覚論は結局のところで次のように深化する。精神分裂病者の妄想知覚では知覚そのものに変化があり、対象の本質属性が強く現れ、現実体験は発病前とは異なる相貌を見せる。そうした妄想的な意味把握であっても対象の本質属性と患者の内的状況とは無関係ではなく、患者の内的状況を理解することで了解可能なものになるのだ。
 

共同主観的存在構造

 ヤスパース・シュナイダー・マトゥセックの妄想知覚論を整理するために、影山任佐は哲学者・廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』の発想を引き合いに出す。そのアイデアは以下のようなものだ。
 二つの相がある。①〈何か〉の相と②〈誰か〉の相だ。まず①〈何か〉の相でいうと、意識にとってあらゆる現象は主語的なものに対する述語的なものに該当する。実在的なものとして「それ自身としてのそれ」があり、理念的なものとして「何かとしてのそれ」がある。たとえば記号において、ある(実在的な)聴覚音像(シニフィアン)に対して(理念的な)意味(シニフィエ)が生じる記号(シーニュ)のように、現象一般においても同様の構造があるのだ。主語的なもの・シニフィアン/述語的なもの・シニフィエの二つの契機は、現れると共に一挙に統一されて現象となり、これを「二肢的統一構造」という。そして記号表現において隠喩的に意味が拡張されうるように、現象はそのときどきの実在なのではなく、むしろ理念的な意味として現れることになる。
 ②〈誰か〉の相では、理念的に存在する「誰かとしての私」と実在的な「私自身としての私」との二つの契機があり、この点で主体は分裂しているものの、二肢的統一構造が「自己分裂的自己統一」という形となるために、 “自分以外でありながら自分自身でもある” という分裂しつつ統合された状態となり、主体は他者との交流・分有に開かれ、理念的な他者を前提にした振る舞いが可能になる。これが「共同主観化」という。たとえば、人が言語話者になる場合を考えると、個別の発話がなされるときには同時に理念的に言語使用のための規範が意識されている。これもまた「私自身としての私」であると共に「誰かとしての私」でもあるという分裂が一挙に統合されている事態なのだ。注意しておくと、私という現象は〈誰か〉という理念を介して実在する私と出会っているために、「私自身としての私」は結局「誰かとしての私」として把握されるほかない。
 まとめると、現象学的な世界は、〈何か〉の相では「単なるそれ以上の何か」が二肢的統一として現れ、〈誰か〉の相では「誰かでさえもある私」が自己分裂的自己統一として現れるという、2×2の「四肢的構造」を有している。
 廣松渉の語彙を用いた影山自身の言い方では次のようにまとめられている。
われわれの基本的出発点を廣松渉氏とともに要約すれば次の点にある。すなわち、現象界は情報的世界として現われ、レアールな「与件」とイデアールな「意味」とが同時的に、前者が後者の肉化の場として現われ、かつ後者の「イデアールな意味」が優位に立っている。また、それは、主体によるふだんの「自己分裂的自己統一」によって「共同主観化」され、他者と分有され、歴史的、社会的パターン化がなされている。
 吾人の表現とのズレはあれど、言わんとしているところは同じだ。あらゆる現象、対象、主体は「実在<理念」の形式で分裂し、そして統一されている。
 影山任佐は以上の廣松渉の「共同主観的存在構造=世界の四肢的構造」を精神分裂病者の妄想知覚およびその体験構造を解明する手掛かりにし、妄想ならびにその他の症状について、精神分裂病の基本的障害を「世界の四肢構造の「分裂」にもとめられる」と評する。それを踏まえれば、精神分裂病者に対する治療者の姿勢は、患者自身の主体性を「イカれている」ものとして排除せず、相互主観的な関わり合いを通して分裂した四肢構造を統合するように働きかけるべきである、と言えるだろう。
 

受動的中心・他者性・魔術的力

ここでは、ここまで影山任佐の『暗殺学』において出揃った諸概念を用いて、精神分裂病者の病的経験を確認し、著者が主張する「精神分裂病性暗殺者の妄想世界と現実世界のかかわり合いにこそ、精神分裂病的事態がもっとも端的に表現されている」ことを見ていく。

精神分裂病者における暗殺

 精神分裂病の意味に妄想が挿すと共同主観性が喪失する。発病前にあった自然な意味感得では、現象であっても主体であっても理念として迫ってくるものだった。存在するうえで実在性は迂回することで享受されている。これが発病後だと実在そのものにおいて現象世界を存在することになる。「自己と対象世界の同時的崩壊」だ。
 さしあたって精神分裂病者における共同主観化の解体は、言語の相における「言語主体」の崩壊した姿として発現する。たとえば既成の意味体系を持つ言語記号に対して独自の言葉を作ってしまう「造語症(言語新作)」がそうで、精神分裂病患者では世界の側にある既成の価値体系だけでなく、主体の側にある自己統一の体系さえも失うことになる。
 精神分裂病の症状にあたる精神医学用語の「妄想気分」「妄想知覚」「関係妄想」などは、精神というものを有する人間全般に見られる普遍的な構造として記述できる。影山の述べるところでは──
新米の精神科医にとって最初に驚くことは、これら患者の言葉が、表現様式に様々なニュアンスの違いがあるとはいえ、内容的には大同小異、各患者がいずれも似たような事を語る事で、しかも外国の患者と同じで、外国の精神医学教科書と寸分違わぬことが述べられることもある。
 具体的な他人との関わりにおいて喩えてみれば、人はふつう他人を「〇〇さん」という呼び名や、親族だったり友人であったりといった関係の理解を前提にしている。これは理念を介して実在と出会っていることに当たる。ところが理念的なものが機能しなくなると、途端に誰とも知れない不気味な他者が立ち現れるのだ。
 他者を「全き見ず知らずの何者か」として相対する。──このことをコンラートは『精神分裂病』の中で天動説から地動説への転換になぞらえ、「アナストローフェ(die Anastoroph:逆回転)」と呼んだ。こうした自己と対象世界の現出にあっては、精神分裂病者はひたすら受動的であることを強いられる(「世界の受動的中心」)。また、そのような異常事態をコンラートは「アポフェニー(異常意味顕現)」と表現してもいる。
 ここで〈暗殺〉に話を戻すと、精神分裂病者が「世界の受動的中心」として他者に圧倒されているとすると、「暗殺の対象者(=被害者)」になるのは次のように説明できる。影山任佐の文章を引き写そう。
われわれが住むこの現実世界で社会的に重要な地位を占め、したがって、他の人々に非常な影響力を及ぼしている人々で、能動的支配者である。洋の東西をとわず、また時代を超えて、その典型的代表者の一人が政治家、なかんづく国家元首であろうと思われる。つまり、彼は国家、「現実世界の能動的中心」なのである。
 影山任佐の説明は明瞭だ。精神分裂病者がおのれの妄想に急き立てられて暗殺を行うとき、圧倒的に受動的である自己自身に対して、能動的な中心性を帯びた人物が標的になる。以上を踏まえて、影山任佐は分裂病の妄想患者による暗殺を次のように定式化する。
したがって、分裂病の妄想患者による暗殺は次のように定式化される。妄想世界の受動的中心人物による現実世界の能動的中心人物の抹殺行為であると。ここでは中心が一つのアナストローフェ的世界の単極構造に加わって、妄想世界の反世界としての現実世界の中心人物が出現し、双極的構造を形成している。暗殺行為はこの「受動的世界の中心者」の能動性への転化であるというわけだ。
 

妄想世界と現実世界との関係

 ここまで見てきた影山任佐の到達地点は、精神分裂病を共同主観的存在構造を構成する自己と対象世界との同時的崩壊という点から、精神病者の暗殺行為を妄想世界における圧倒された中心である自己自身の、現実世界において能動的中心の位置にある中心者の暗殺として把握したことだ。また、分裂病の妄想は受動と能動との二極性を「双極的構造」として捉えたのだった。
 次に問題にするのは「現実世界の中心人物と妄想世界とはどのように結びついているのか?」ということである。影山の表現を借りてより細かく言えば──
問題は患者の妄想世界と現実世界との分節の仕方、ひらたく言えば妄想世界への現実世界の支配者の登場の仕方、両者の関係が問題となる。さらには妄想世界と現実世界の関係のしかた一般の問題に、この問題は帰着する。
 あるいは、より端的に言うと問題は〈他者〉である。木村敏が「分裂病性の事態とは、例外なく『他者性による自己の主権簒奪』の事態である」と述べ、エーが「他者が自我になる」と表現するように、大体のところに他者によって迫害された被害者としての自己自身がいる。(女性の場合には嫉妬の感情に根差した性的迫害妄想が多いとの指摘がある。)
 影山は精神分裂病者における妄想世界の他者が持つ圧倒性を「魔術的力」と呼ぶ。実在的ではない理念的な他者が「魔術的力」をもって患者を圧倒している、というわけだ。こうした魔術的力を持った「根源的な他者」の姿を、影山は分裂病臨床の初期段階において見られる、自分を迫害する存在が不明であり「誰かが」とか「みんなが」などの言い方で表される際の〈他者〉に見ている。そして、往々にして理念的で根源的な他者は患者自身の無意識に属しており、実在的な他者(ふつう言うところの「他人」)とは存在の次元を異にしている。個別の他者は根源的な他者によって魔術的力を与えられ、理念的な質を帯びることになる。こうした非実在的な属性を与えることを影山は「魔術的変形」と呼ぶ。
 ここで影山はラカンの名前を出し、根源的な他者はラカン派が言うところの「大文字の他者」「父の名」「掟」との近縁関係を示唆する。先ほどまで取りあげていた実在する個別の他者はラカン派的には想像界に属する「小文字の他者」であり、理念的な他者は象徴界に属する「大文字の他者」と呼ぶにやぶさかではない、というわけだ。
 フロイトの水脈を引くラカン派では言語的な類縁関係に基づく「言い間違い」ならびに「置き換え(置換)」に代表される、無意識の言語的な構造に着目し、意識生活と無意識世界との関係が類似的・隠喩的な象徴関係によって動いていることが指摘される。精神の健康に関して言えば、理念的なものが実在的なものになること、あるいは抽象的なものが具体的なものになること──この前者の後者への代入作用の適切不適切が問われるのだ。
 代入が問題となる精神分裂病者である暗殺者の妄想世界を、影山は次のように描写する。
精神分裂病性暗殺者の妄想世界では、イデアールな「他者」が現実世界の権力者という個別具体的なものに「代入」され、両者を結びつけるものはその「魔術的力」と現実世界の「支配的力」との類似性、相似性である。
 無意識は言語のように構造化されているといったアイデアが語るように、理念的な他者もまた言語のように現実世界の個別具体的なものとの対応を認めることができる。そして個別の他者が魔術的力を通して「魔術的変形」を遂げる過程もまた、フロイト−ラカン的な隠喩的(言外性)で換喩的(別言性)な心的現実における転移から検討することができるのだ。すなわち、妄想の世界で他者に圧倒されて受動的な状態に置かれている自己自身に対し、現実の世界において支配的な力を持つ他者を「能動的な中心者」として決定させる作用が「魔術的力」であり、そうした他者に妄想世界の中で効力を持たせる作用が「魔術的変形」に当たる。言い換えれば、魔術的力の備給が中心者の擁立に当たり、中心者の意味を妄想的に変容させることが魔術的変形に当たるのだ。
 精神分裂病では自分自身が世界の受動的中心となり、まったくの受け身状態に陥るのだった。そして精神分裂病性の暗殺者の妄想は(理念的な)他者に圧倒される体験があり、それに対して圧倒する何者かが(実在的な)具体的な他者として発見され、世界の窮地を救うにも等しく、自分自身の世界を脅かす、現実世界において能動的な中心(であるかのような)人物に対する暗殺行為へと向かう。
端的に言えば、精神分裂病性暗殺者の妄想世界と現実世界のかかわり合いにこそ、精神分裂病的事態がもっとも端的に表現されていると言える。この限りで言えば、精神分裂病的妄想世界でその魔術的力を賦与された者に対する暴力や殺人は、原理的には「原父」(Urvater)殺しであり、その端的な例が暗殺であると言えよう。
 上の引用にあるように、影山は精神分裂病性暗殺者の妄想世界と現実世界との関わり合いこそが「精神分裂病的事態がもっとも端的に表現されている」と評価している。というのも、実在する対象を不断に代入し続ける限りにおいて、その対象が遠くに行ってしまおうが死んでしまおうが妄想世界のあり様に変化はない。たとえ暗殺が成功してさえも、だ。ここには分裂病性妄想の持つ「根源的な他者の魔術的力」があり、その力の影響下において悲劇的な父殺しの英雄の如く暗殺行為へと駆り立てられる暗殺者の姿は、まさに精神分裂病性のもっともわかりやすい表現になっているのだ。
 

まとめ

今回は犯罪学者である影山任佐の『暗殺学』の紹介をしました。吾人の関心から取りあげたのは、影山による〈暗殺〉と精神分裂病との構造分析でした。いわく、〈暗殺〉こそが精神分裂病の妄想症状のもっとも顕著な特徴を認められるというもの。参照されるのが哲学者である廣松渉の「共同主観的存在構造論」なのが楽しい一冊なので、気になる方はぜひ読んでみてください。
_了

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